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日記 感性について

全然投稿してなかったから投稿してみる。

最近は受験生なのに全然やる気が出なくて、全然勉強してない。高2の三学期に、学校から「高2の三学期は高3のゼロ学期です、この時期にエンジンをかけておかないと後々周りの人と差がついてしまいますよ」と言われて、やばーと思ったのに、そこから何にも変わってない。周りと差がついてるのは、意識してアンテナ張ってるわけじゃないし正直まだ実感ないけど、友達で休日15時間とか勉強してる人いて、もう次元が違うと思う。本当にやる気がなさ過ぎてもはや危機感も感じていない。


最近は短歌がめっちゃ好きで、短歌のことしか考えていない。自分でもちょっと作ってみたりしてWordに保存している。わたしはやっぱり、短歌とか詩とか、そういう感性の世界に行きたいなあって思うし、自分の人間っぽいところ、全部捨てて清いものになりたい。
自分が精神だけになって短歌や詩や物語の世界を自由に泳げたらどんなにいいだろうと思う。もちろん身体があってこその感動とか、身体と結びついたあれこれがあるのもわかる。森に行って、きれいな空気に包まれて清い気持ちになるのは、その空気を感じ取る肌や吸い込む鼻や、耳や、目のおかげ。そういう身体の感覚は確かに持っておきたい。
ただ、わたしがいらないのは、自意識と結びついた身体。身体がある以上はどうしても容姿が気になってしまうし、それを気にするがゆえに自分のしたいことが思い通りにできなかったり、清い感情を邪魔したりする。黒く塗りつぶす。台無しにする。そういうのがまじで最悪でまじで嫌なのだ。自分の容姿に対する自意識を極限まで消したい。空気みたいな存在になって、周りのことに何の気がかりもなく、純粋に反応して生きていきたいのだ。好きな人と接するときだって自分がどう見られるか考えてしまって嫌。純粋にその人のことだけを考えて、その人を称えたいのに。
わたしがなくしたいのは身体っていうより自意識なのかもしれないな。それも汚い自意識。自分の感性とか哲学的な思考などはむしろ大事にしたいけど、他人からどう見られるかとか自分の価値はどんなだろうとか、そういう俗っぽくて薄くて汚い自意識を抹消したいんだ。


感性の世界に行きたいと書いたけど、文系と理系について少し考えたときに、思ったことがある。それは、文系は文学部とかのイメージからあるように物語が好きな感受性豊かな人たちが選ぶ道のように思われているけれど、文系の勉強でも、大切にされるのは感性じゃなくて理性だということ。
わたしがやっているのが受験勉強だからかもしれない、歴史では、昔の出来事を学んでその出来事がその時代や地域にどのような影響を及ぼしたのかを論理的に考え、現代文では文章の構成を見抜き筆者が何を言いたいのかを正確に判断する。そこには理性が必要だし、私たちは理性を磨くことを求められる。理系とはまた違う方向性のものであるだけで、文系も、理系と同じ理性の学問なのだ。
それに気が付いて、ああ、世界は理性なんだなあと思った。倫理ではじめの方に、人間とほかの生き物を分けるものは理性だ、みたいな話があったように記憶しているけれど、それがしっくりきた。
わたしも理性は好き。哲学者の考えを学ぶことも好きだし、前述したような現代文の勉強も好き。
でもふと思う。感性を磨くものがないなら、感性は一方的にすり減っていくだけなのではないか、と。
この間歌集を開いたとき、数か月前にはあまりの感動に涙を流しまでした歌が響いてこなくてやりきれない気持ちになった。感性は、いつの間にかすり減ってしまう。わたしには感性の磨き方が分からないし、だから頑張っても、今ある感性をつなぎ留めておくことしかできない。わたしにとって感性をつなぎとめてくれるもの、薄らぎつつある感性を再び濃くしてくれる箱のようなものが、詩や短歌だ。
だから詩の解説や短歌の品評などに少し抵抗を感じてしまう。わたしの感性の源を、理性で塗りつぶされてしまうようで。箱が開かれて、感性の元が全部逃げてしまうような気がして、怖いのだ。
いつかそういう楽しみ方も、いいと思えるようになるのだろうか。



最近はほむほむ(穂村弘さん)みたいな文章が書けるようになりたいなーと思ってる。どうやったらわかりやすい文章が書けるようになるんだろう。自分の思った通りの文章が書けるようになるんだろう。やっぱりそれにも理性が必要なんだろうなあ、理性の方面では結構劣っているかもしれないと感じる、わたし。もういっそ感性に全振りしようかな。

文章をうまく書けるようになるためにも、勉強するかな。勉強の閉塞感(大してやってないけど)からかわからないが、ここ数日走りたい気持ちがずっとある。朝、学校行く前にジョギングとかしたいなあ。


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