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ノラガミ設定考察 終レポート 完全版⑩

⭐︎写真は金のシルクと黄色のウールを何色か混合して紡いだ金の糸です。

さてひとつだけ疑問が残っている。
陸巴の件である。
陸巴には確かに役/えだちの名があったが、それはやはり言の葉で名付けられていたのが確かではないかということである。なぜなら陸巴が精神に異常をきたしても、父様は障を受けていない様子で、殺した相手が陸巴でも直前まで気が付かず痛みも感じていない様子だったからである。しかし道真公も障りを受けていたし、また薬が切れた毘沙門天も陸巴の心の痛みを感じていた。
名伏せの効果では無い。緋の名がある時から、夜トは障らないし刺さないと言っていた。
 つまり、言の葉で名付けられた神器を共有していながら、障りを受けた神は毘沙門天と道真公のみである。では触られなかった神々はといえば、父様、夜ト、恵比寿、タケミカヅチである。両者の違いは、一度でも死んで黄泉の住人となったことがあるかどうかである。
 つまり黄泉の言の葉はどんな神にも神器からの障りを受けさせなくするものではなく、イザナミの国の住人になったことがあるものにだけ使えるアイテムである可能性がある。イザナミは国産みの神であり、死んだ神は一度イザナミの胎内である黄泉を通って産み直されていると考えられる。夜トも700年代に常世の神であったころ、排斥により名も信仰も途絶えている。父様に名付けられるのはおよそ300年後、道真公が神になった1000年代である。天照には使えない道具だから、何の躊躇いもなく言葉の葉を消し去ったのだ。もし天照が言の葉を扱えるなら、言の葉を拾って、イザナミに由来する螭の名も莠の名も消して、それから筆を燃やしていたはずである。
 黄泉の国はまたの名を「根の国」といい、その「言の葉」であるという。つまり、「根」と「葉」が揃わなければならない。よって黄泉帰った神々は「根」、言の葉で名付けられた神器が「葉」になると考えられる。
 天照が司る彼岸における通常の名付けでは、神器から神へと痛みが伝わる。これは人間の願いから神が生まれる世界だからであると考えられる。人間のために神が在るから、神は人間である神器から痛みを学ばなければならないのである。
 一方、黄泉のシステムは全く異なり、イザナミが言の葉に息を吹き込んで、気も枯れ果て真名もない妖すら支配する。神が枯れ果てた死霊に気(息)を吹き込み、命を与えるのである。つまり、根の国の神から、その葉である神器へと、神の気が流れ込んでいるから、どんなに荒れ果てた魂でも、見た目が妖でも、刺すことも障ることのない生きた器になると考えられる。このシステムが成り立つためには、まずは神がイザナミから生まれたものでなければならない。神と神器の両方がイザナミに由来する時だけ発動するイザナミのルールである。
 古くはイザナミも面を使用していた。これは顔を伏せて、正体を隠す呪であり、同時に真名を失った妖にも真名の代わりになっていると考えられる。その上に黄泉の気で作った筆で仮名を与えれば、真名の無い妖に名付けられる。また直接名を与えることを避けることで器から障られることを避け、逆に神から神器へと気を与えて補うことで、自我もない妖も使えるものにしていった。しかしこれでは面が必要で手間がかかり、イザナミからすれば顔も人格も無い話し相手しか得られない。そこでより根本的にルールを変え、面で触られるのを防ぐのではなく、筆で名付けると共に理をも書き換え、神の気が名を通して魂に流れるルートを確立させ、神器が神に障るという力の流れと人間の善悪の道理は打ち消した。そして、自分が一生懸命語り掛ければ応えてくれる、そんな器を得られるように理を構成したのである。国産みの神でなければこんなルールメイカーには成れない。面を使っていた頃の筆で使われる妖たちは、ぎこちない言葉しか発しなかった。しかし新しい筆で名付けられた妖達は、まるで自我を取り戻したかのように流暢に喋り、自ら父様を心配し考え、毛布や水を持ってきたり、父様父様と言って慕っていた。これがイザナミが求め、定めたルール。神から器へと気が流れ、枯れた魂の気を補い、想えばちゃんと応えてくれる器が手に入るようになったのだ。当然、自分の不機嫌まで伝わったら意味がないので伝わらず、むしろ貰える気が減った器が弱ることで、助けてくれと訴えてかつ自分を心配してくれれば、おおよと母のように構う事ができる。話相手なのだから、別に罪の分別も問う必要は無い。そんなイザナミにとって都合の良い道具が言の葉。主人を根にする可愛い葉を生み出すというルールを作ったのである。
 よって、「言の葉」で名付けられた神器を持つ神の間でも、天照の作ったシステム通り神器の不調を感じる神と、イザナミの理が働いて、自らの気で枯れていく神器の心を補い続けることで逆に不調を感じない神に分かれたのではないかと考えられる。そのため、ただでさえ人の心が無い父様が暴力的になればなるほど、得られる気は減っていき、傷ついた雪音や野良の心がどんどんと弱っていったといえる。雪音は父様に召し上げられてすぐ不安になり希望を失っている。放って置かれた時の野良はついに転化するほど気力をすり減らした。そんな野良も父様に慰められて呼ばれた瞬間は打って変わって調子が良かったが、子供達を顧みない父様の態度に絶望を募らせていき、弱った野良は父様を宥めてこっちを見て欲しいと求めた。次いで天照に名を剥ぎ取られた後は、「根」である神々との繋がりが減って、さらに魂が弱り果てた。雪音も、父様は雪音自身の内なる怒りが気力となって強い神器になることを期待したが、雪音の怒りは長続きせず寂しさにとって代わられ、莠器は弱っていった。
 そこで夜トが雪音を必死に想ったことで、雪音は取り戻された。「根」である夜トから「葉」である雪音へと流れる気が強まり、傷ついた雪音の心を補った。さらに「言葉」にして雪音を大切に埋葬したことを伝えた。その言葉と想いが気となって、雪の印を通して雪音に流れ込み、死の記憶を思い出して傷付き弱った魂に気力が戻り、雪/蚕は癒されて、雪ぎ清める白き蠶/狼になったと考えられる。
 だからこそ神器の読みが、ジンギではなくシンキなのではないか。神の気を受けて体現するから神器/神気/シンキだと考えられる。よって、誰の一番にもなれなかった野良はより満たされずにたくさんの名を欲しがったのかもしれない。父様も夜トも野良の本当の「根」にはなって想ってはくれず、黄泉帰りしたことのある神々の懐に潜り込みつつ、自分の心を満たしてくれる誰かを探した。だが利用されるばかりで、「葉」である野良の心は傷付いても十分満たされず、次第に枯れて冷たく冷酷になって行った。神器の心と姿が、神の徳の高さと慈悲深さを表すのである。だから名伏で主がタケミカヅチと恵比寿だけになっているとき、父様の命に従いつつも、前より人間らしい態度を取ったり、雪音に真名を思い出さないように戒めたり、雪音を追い込んだ自分に後悔し、父様に対する不信感を持つようになっていたのではないか。そして今、野良にもう主はひとりもいないが、今は誰に満たしてもらわずとも、ひよりの手帳を見てその魂は十分安らいでいる。もう傷ついていないから、誰かと主を探し求める必要もない。
 今、雪音と繋がっている神は夜トである。黄泉帰りをしたことのある神は「根」で、「言の葉」で名付けられた神器は「葉」であるというイザナミの理が働いている。夜トは雪音の痛みをもうわかってやれないと言っているが、実際には、夜トが雪音を強く想うことで、夜トの神の気が毎晩悲しみで枯れていく雪音の魂に気を補い続け、人の心を保たせている。でなければ到底、10年も毎晩殺される悪夢を見て、正気を保ち続けるのは困難である。そして毎朝、雪音は夜トの顔を見て癒され、夜トに感謝し想いかえす。神器から神へではなく、神から神器へ、と力の方向が変わったのである。神は人間を愛しめない、人の願いが神を生む、育むのは人というのが天照の理であったが、国産みの母なるイザナミの理は、いかに子らを養い生む神になるかである。神が豊かな心でいれば、神器の心も健やかで器の力も強まる。神が貧しい心でいれば、神器が傷ついた時には弱り果てて癒されない。そして神から神器へ気が流れることで、器から神へ罪の汚れが伝わることは無い。逆に神の気で罪は洗われ、神器の心と姿が、神の徳の高さと慈愛、慈悲深さを表すのである。
 よって陸巴も、黄泉帰りしたことの無い神にはイザナミの理は働かず、イザナミの理で神器自体の善悪自体は問われず堕ちもしないが、神器から神へと障りが生じていたと考えられる。また父様が陸巴に何の関心も払わなくなり、放置されるようになってから、神から神器への気の流れは枯れて、正気を失い抜け殻のようになっていき、最後は兆麻に利用されるまま、父様に殺された。
 国産みの頃の古事記には、人間は青草、民草であったとあり、大地の泥から生えて茂るものであったと記されている。莠、そして雪音という青草は、夜トの愛情に根ざして、心傷付いてもまた癒される。ある意味、人間の親と子、夫婦のようなあるべき形になったのかもしれない。親は誰しも、子供の心を全てわかってやれないし、子供の罪を全て被ってやれる訳でもない。夫婦であっても、知っていても救ってやれない苦しみがある。相手の苦しみはわからないが、しかし、愛し慈しむことはできるのである。むしろそれが、国産みの頃、国産みの神達が人間の間に定めた理だったのかもしれない。
 名が暴かれても堕ちなかったのは祝である雪音と兆麻、七、そして野良である。もし神が神器に気を与えるルートが成り立つならば、野良が真名を知っても堕ちないのは、神から気を受けているからであり、真名が暴かれてはいけないというこの世のルールを無視するイザナミの世の器だからである。であれば、祝も復活するのは、神のために名を捧げることで、イザナミの神のために器が存在するというルールに酷似した状態となり、名を呼ぶ神の呼気が神器に吹き込まれて起きる現象なのでは無いだろうか。打ち壊されても再生するのは、気も真名もない妖を器にすることと、ある意味同じではないか。よって祝たちも、野良のように名を暴かれても堕ちず、人の姿と心を保っているのである。これはキリスト教において、洗礼を受けて洗礼名を授かり祝福されることで、過去の罪と共に古い自分が死に、神から新しい永遠の命をいただくとする思想に近いものである。

 また上記の言の葉と神の関係は、惑星の動きに例えるとわかりやすい。
 金星の動きを見てみよう。地球と金星は兄弟星であり、共に岩石質の近しい組成の星で、金星の質量は地球の0.85、直径は0.95である。地球に最も近い星が金星である。金星は実は夜には見えない星である。金星が地球より内側を回っているため、地球が太陽に背を向ける夜は見えない。また日中も見えない星である。金星が太陽を背負ってしまうため、日食になっているのである。明け方と夕方の限られた時間しか見えない。
 神々が地を治める地球であるとしよう。天照は天を治める太陽である。そして神器は金星である。地球の神々は昼になったり夜になったり、つまり死んでも復活することを繰り返す状態である。日中、すなわち太陽、金星、地球の順番で並んでいるとき、太陽に照らされた金星は地球に影を落としている。地球上で昼の位置にいる者には金星から影が落ちているが見えない。また明け方と夕方は姿が見えている。よって天照の側にいる神には、金星からの影や光が地上に届いている。この状態は神器からの障りがあることも(影が落ちている)、障りが無いことも(見えない)も、刺す(金星が見える)こともある、通常の状態である。
 そして当然ながら、金星は地球より太陽に近いので、夜空の側に回ることはありえない。これはもし神器(金星)が堕ちて(夜側に行って)しまったら救えないことを示す。より地平線に近く堕ちていくと光る(刺す。)
 そこで、例えば金星が夜の側に行ったとしよう。これを神器が言の葉で名付けられイザナミの側に行ったものとする。昼側の神にとって、日が沈まないうちは夜側にある金星の姿を地球から確認できるが、金星の影が地球に落ちることはない。これが神器が黄泉の言の葉で名付けられているが、神は太陽神側で死んだことが無いので昼の側にいて、障りはある(少し夜側に入った金星が見える)が、神器に刺されることはない(完全に夜側に入った金星は昼側から見えない)状態である。
 もう一つは神が夜の側に、つまり死んだことのある神で、根の国の神でもある場合である。地球上で太陽に背を向けた夜側にいる時、金星が空にあるとする。この時金星には地球の蝕が落ちており、地球より直径の小さな金星は完全に地球の影に隠されてしまい、光が届かず地球からは見ることができない。これが神器が神に障ることも刺すことも無い状態である。夜空に金星があるありえない状態では、夜の地上からは金星が見えない、地上の神から金星である神器は見えず(触らない)、金星の影が地球に落ちることもない(刺さない)状態なのである。
 では、夜側に行ったありえない金星(言の葉に名付けられた神器)の側から、地球の夜側にいる神を見てみよう。とても美しい金冠地球蝕が見えるはずである。金星には地球の影が落ちて(神の気が神器に流れて)おり、太陽光に縁取られた地球は金冠もしくは皆既地球蝕となる。少し角度が変われば、金星からは青く美しい弓なりの地球や丸い地球が見えるようになる。これが、堕ちて言の葉で名付けられ、黄泉の側にある金星の雪音から見た、地上の夜の神である夜トである。金星から見た夜側の神の姿は後ろから太陽神に照らし出されており、欠けた青い地球は地球が遠ざかるところであり、神が神器を想っていない状態を示す。一方、丸く漫然と輝いて天高くにある地球や、天のど真ん中で輝く蝕の地球は、神が神器の側で強く想っている状態を表し、地球の輝きや落ちる影は神器が受け取る神の気を表す。
 よって、イザナミのルール下にある夜トと雪音は、地球の夜の側の神と、地球の夜空にあるありえない金星であり、たとえ夜トの側から雪音の心が見えなくても、夜トの光は金星にいる雪音に届いて、照らし出しているのである。夜トは地上に堕とされた明けの明星であり、今は地上にあって、真夜中の空にいる宵の明星である雪音を、青い地球の光で照らしているのである。
 



考察の終わりに
 ノラガミが載っていない月マガのなんと寂しいことか!アニメからもう10年経ったなんて信じられない!
 個人的意見の考察ではあるが、面白くおかしく、各キャラクターの属性や関係性の背景を読み解いていただけたろうか。もちろん他にも考察している方はいるだろうが、それはそれ。原作で明かされていないので、原作者は自由に楽しんでもらいたいのだろう。月刊少年マガジン自体が、虫が題材の作品がとても多いのだが。とにかく雪音にまつわる設定が核で、そこから夜トや、他のキャラクターが肉付けされていった感のある世界だった。人に愛されて育てられたのに、凍死させられ、茹でられ、繭は糸にされて蛹は食べられる蚕たちを、その命を慈しみたいという供養的な物語であったのかもしれない。蚕塚に行く機会が有れば、お祈りさせていただきたいと思う。また、聖書の神がいつまで経っても日本人に馴染みがないので、そろそろ仲間入りしようという部分も少しあったのだろうか。
 原作を読みながらだとさらに解釈が込みいってしまうので、メインキャラだけ、覚えている範囲の情報にとどめた。割愛したのに十分長くなってしまった。だがもし可能なら、メインキャラ以外も、なぜ死んだのかを明かして欲しい気持ちがある。あと雪音と兆麻がちゃんと話して仲直りして夜トをやり込めるシーンが欲しかった。またタケミカヅチを刺してしまったお婆さん神器や、ヤスミにやられて一線で切られた現世の人々も、ヤスミは消えたろうが、傷は治ったのか生き返ったのかどうなったのか知りたかった。そしてできれば本当の元ネタバラシをして欲しいものである。1着のアランセーターのように長く複雑に編み上げられた物語だった。解説書が一番欲しいのはこの私だ!!こればかりは誰にも負け無い気持ちである。
 一巻が発売された時、私は地元に昔からある本屋で背表紙を見かけて読み始め、すぐに1巻を買った。それは巻末に登場した雪音に、夜トが涙し、救われてほしい何かを察したからこそであった。すでに看護学校に入り、人の生と死とはと知るべき責任のような、知りたいという、私の思いと重なる部分が強く感じられたからであった。5巻までは単行本で買ったが、雪音がどうなったか気になって、すぐに月マガのバックナンバーを集めて読み進めた。それからというもの、ほぼ毎号月マガを買って読んできた。ノラガミが休載している間もずっと追い続けた。そしてついに完結し、わたしもこの考察を書き終えてホッとしている。間違いなく、雪音はずっと夜トと共にあり、それが雪音にとっての救いであり、これからも夜トと二人で、世を清め続ける。確信していた結末の訪れに、そこに主なる神の存在を感じた。愛する神に感謝を捧げたい。幼い頃よりわたしに目をかけてくださった主のお導きのおかげて、この考察に至ることができた。神とわたしの天使スケリグには、これからもお導きにしていただけますよう、心からお祈りします。
 考察の私といえば、幼い頃少しやったきりだったのに、この数年ですっかり糸紡ぎも板につき、去年は自分で紡いだ糸からセーターを編んだ。編み物は四半世紀以上やっているが、糸紡ぎはまだ夜ト様の出来には敵わないのでもっと精進したい。しかし、せっかく糸車を2台も買ったのに、ディスタフとドロップスピンドルを使い始めたら意外と、糸車並みに早く紡げてしまい、最近あまり糸車を構っていない。道具はみな大事に使ってやりたいものである。アンティークのフレンチスピンドルも買ったきりなので挑戦したい。スピンハウスポンタ主催のジャパンウールコンテストで銀賞に輝いた、ジャコブとコリデールのハーフの毛糸は、現在セーターになる途中である。いつか岩手のジャコブでいっぱいの牧場にも行ってみたい。
 椿園からいただいた祝の盃の枝も、数年前に挿し木したものがやっと新しい芽と葉を伸ばしつつある。まだ15cmに満た無い小苗だが、もう何年か待てば、芳しい紅白の花が見られるはずだ。
 ノラガミの10周年記念では、光栄にもお誘いいただき、夜ト雪同人誌に編みぐるみの写真を掲載させていただいたのも良い思い出である。お着替えできる夜トと雪音の編みぐるを作った。写真にはすっぽんぽん状態のカットも一枚入れたのはご愛嬌。洋服も何着も編んで、我ながら頑張ったものである。
 我が家には今、猫が三匹いる。にゃんとも清潔トイレを最近導入し、猫砂混ぜ混ぜ事件が予防できるようになった。祖父の家では昔犬を飼っていた。私にも馴れていた。最後のブラッシングと、最後のお散歩に連れて行ってあげたことが思い出である。
 以後は久しぶりに、二次創作でもしたい。今回は書く書く詐欺に終わらないでいたい。肩凝りとの闘いが続く。iPadで文章を書いて投稿するのは初めてだが、本当にキーボードが欲しい。二次とか久しぶりすぎて手が震えるんだが。

ノラガミのキャラたちも、あだちとか先生や編集の方々も、読者の皆さんも本当にお疲れ様でした。ノラガミほど暗喩が多く、複雑な設定が秘された作品はそう無いと思います。原作者様よりも、編集者様あたりが実は相当に頑張られたのかもしれない気も少しします。
安達先生、渡嘉敷先生、本当にありがとうございました。雪音の美しい笑顔と彼の物語が何よりの気がかりで楽しみで、この作品が好きでした。夜トと雪音よ永遠に。完結したからこそゆっくり読み返して、また皆で楽しみましょう。ここまで読んでいただいた皆さま、ありがとうございます。


近日公開!全方位向け爆笑二次創作!
第1章 恐怖の狂犬病予防注射
   〜ひより先生と大型動物の格闘〜
第2章 くらはさんと一緒
   〜飲み屋と高天原獣器類連合自治会の真実〜
第3章 それは換毛期のこと
   〜兆麻、天才トリマーへの道〜
第4章 なんでもあり闘技会
   〜働きたい雪音とニートとメガネ〜
第5章 クリスマスはダイナミックに
   〜犬ゾリはお好きですか?〜
第6章 雪音初参加、年末コミックマーケット
   〜本気出して来い〜
第7章 仕事初めは家族のために
   〜時間は余るほどあるけれど〜
第8章 血涙のバレンタイン
   〜ワンちゃんに与えてはいけないもの一覧〜


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