見出し画像

ピューリタン・ユートピアの挫折

ピューリタン・ユートピアの性格とそれがイギリス革命に果たした役割の要約について。

アマプラビデオで『フォールアウト シーズン1』を見たのですが、荒廃したアメリカ舞台なのにキリスト教とか全然出てこないんだなぁと思いましたね。それはさておき、、

この度、『イギリス革命とユートウピア』田村秀夫著。1975年。創文社。を読みました。田村先生は、ユートピア思想書籍からイギリス革命期のダイナミクスの全体を把握しようとする。ざっと読んだ感じは以下の感じ。


「イングランドでは革命が宗教的形で表現されたことが民衆の夢を極端なものにした」A・L・モートン.

極端なものとは、その具体案、キリスト王国の地上実現のこと。

1641年、国王と議会との対立が全面化。
『キリストの地上支配』アーチャーや、グドウィンやリルバーンが、イエスに仕える戦士(聖徒)として王政を倒すという考えを打ち出す。

これよりピューリタン革命は「キリスト王国の実現を目指すキリスト戦士らにより遂行される聖徒の統治」が掲げられる。

ハートリブ著『マカリア』が議会派成立以前に明るい未来を展望する。

内戦勝利した革命派。のち革命陣営分裂。議会と民衆の対立表面化。民衆は千年王国到来を待望する。神秘主義的セクトは「少数の選抜者ではなく、人間はすべて救われる。その救いは全面的変革によって地上に実現する」と主張しだす。

1649年、国王処刑。共和制樹立。

革命議会を掌握している長老派、千年王国実現を前提としつつ、ピューリタン選民思想を掲げ、権威秩序を尊重する『ノワ・ソリマ』(S・ゴッド)構想をとりだす。

また、聖書を誤りなき神の言葉として、国教会に対しては、「教会は人の作ったものだから誤りがある」と批判しつつ、民衆の一部セクトの「聖書は不安定で誤りが含まれている」という主張に対しては「キリスト教徒としての節度の遵守」を求めた。

この点は、ヒュー・ピーターのユートピア『よき為政者による善政』と同じ神政政治ユートピアだ。『改革された精神的農夫』(ハートリブ)、『聖なるコモンウェルス』(バクスター)、『クリスチャン・コモンウェルス』(ジョン・エリオット)や第五王国派やクエーカーらも同じ。

しかし、第五王国派が「あらゆる支配と権威はたとえクリスチャンの手中にあれども打倒されるべき」と主張。クエーカーも同様、民衆的セクトはアナーキズムに傾斜していた。

革命の成果から疎外された民衆の運動のなかから『タイラニポクリト』や『自由の法』が生まれる。

独立派は、「為政者は宗教維持の親」として、水平派と同盟して長老派を排撃。彼らはピューリタニスムの神政政治観念を要した。ヒュー・ピーターにとって正義とは「為政者が私有財産の安全とその増殖を守ること」であったため、セクトの主張する富の平等化や共有化を斥けた。

またセクトの「敬虔と金持ちとは成立しない」主張に対し、「慎重な金持ちは祝福によって隣人に抜きんでている」としてこれを斥けた。

一方で、国王派たちは、王政の挫折を表現する。マーガレット・キャヴェンディッシュは『きらめく新世界』を書く。ハリントン『オシアナ』にいたってはプロテクター制を追認する。

1658年、オリヴァー・クロムウェル死去。

1659年、軍隊の内部分裂、議会と軍部対立。プロテクター制は崩壊する。国王派の蜂起と左翼諸派セクトの民衆運動激化、カオスな無政府状態に至る。プロテクター制をあくまで理想とする『ケイオス』やピューリタン・ユートピア晩期の作品が生まれる。独立派の保守化と長老派の同化が進行していた。

1660年、王政復古。約20年間にわたる革命に終止符が打たれる。国王派たちが味わった挫折は、今度は革命派たちが味わうこととなる。

1661年、クラレンドン法典。ピューリタンの弾圧立法が新議会通過。『クリスチャン・コモンウェルス』著者エリオットは王政への攻撃性を反省することとなり、国王・上院・下院からなるイングランドの政治体制を「合法であるだけでなく、卓越した政治体制だ」と確認するに至る。

1670年、バクスターの『聖なるコモンウェルス』は反逆の書としてかねてから攻撃されており、彼自身これの販売を拒絶。1683年にはオクスフォードで焚書される。

感想とつけたし

17世紀イギリスではユートピア思想がたくさん生まれたことがわかりました

革命陣営にとっては、王政は「くびき」のごとく感じられ、スチュアート王朝にいたる封建権力とノルマンの征服王ウィリアムの連続性を主張する「ノルマンのくびき」説が各方面で受けいれられるようになる。(略)「ノルマンディから持ち込まれたあらゆる法律と慣行が廃止される」と要求し

64p

だが、共通の「くびき」を破砕するために、議会を主導力として広範な民衆のエネルギーを結集した革命陣営も、内戦の勝利により国王のくびきから解放されると、内部の分裂・対立が表面化してくる。

64p

革命議会は多頭的だったが、それでは物事はうまくすすまない。だから歴史上いつでも多頭制は長生きしない。護国卿が誕生する。

今度はこれを革命左派たちが攻撃する。専制王政を打破したのにもかかわらず、専制者が生まれたからだ。偽善的専制者であるとして攻撃する。

『タイラニポクリト』はその頃生まれた。タイラニ(専制者)とヒッポクリト(偽善)をくっつけた言葉。ウィリアム・ウォルウィンの作品かと思われます。この書は「他人の額の汗で暮らすのではなく、自らの額に汗して生きる」ことを良しとしている。コミュニスム的な平等思想、悪く言えば悪平等的思想。マルクスをずっと先取りして17世紀イギリスにあったといえるでしょう。

「イエスに仕える者として王政は打倒されるべき」という考えと、ノルマン以前の社会へ脱出したいという「ノルマンのくびきへの批判」という情熱が革命陣営にはあった。

対して日本においてはこの二つは無い。唯一神の前の平等はないし、日本と皇室の歴史は同じ淵源にある。ブリテン島ではノルマン封建制成立以前に、すでに歴史があった点が日本とは違う。

日本では皇室が外国から渡ってきたものであるという考え方が成り立たない。戦前は騎馬民族王朝説があったが、否定されている。実際、考古学上、現皇室にいたる王権が、近畿以外の地域から武力によって征服しに来たという証拠がない。この点は古事記にも違反している。九州からわたってきたという証拠もない。九州の古墳群は近畿圏のそれよりも新しい。

縄文後期から弥生時代にかけてたくさんの渡来人を受け入れ、穀物の貯蓄が階級を発生させた。ゆるやかに、モノポリーゲーム的に、在地的に、自家発酵した王権だ。だから、朝廷以前の日本、ことに大和というのは存在しない。

一方で、朝廷の権力を後発的に受け入れた地域、組み込まれた地域には「日本以前の姿」というのは存在すると思います。いくつかの諸地域は頑固に皇化政策に反対した。薩摩隼人、熊襲、国栖、東北蝦夷など。これらの地域が、いわば「皇孫のくびき」を受け入れ、現代日本に続く道ができあがる。

Image by Ron Porter from Pixabay


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?