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和裁の先生

「佐古の娘です。突然のご連絡申し訳ありません。昨日、母が他界いたしました。とても急で家族も驚いてます…」

和裁の先生の方から珍しくLINEが届いたという通知を見て、嫌な予感がした。普段、先生は私にLINEを送らない。私が何かにつけて挨拶やらお知らせやらをすると、やたら速攻で返事をくれる。癌が再発して闘病生活に入ってからは特にそうだった。

LINEを開いてメッセージを読んで、思考が止まった。カナダから日本に帰り、何とか日程をやりくりして先生のお住いになる北海道まで行くのは言わずもがな大変で、前回会ったのは2021年の冬だった。随分と痩せて、足腰も弱って、食べられる量も減っていた。それでも今年の暮れに連絡をしていた時には相変わらず速攻で返信をしてくれていたのに。次の一時帰国では、会いに行こうと。

一瞬でそんな事を考えたけど、今は朝だ。仕事に行かなきゃならない。それに実感が全くない。それも当然で、私の日常から先生がいなくなって、もう10年以上になる。

実家を通して手紙を添えた香典を送っても、実感は沸かない。仕事は時期的に忙しくはないけど、精神的に負担を強いてくる案件が続いていて、あまり感傷に浸る事もなかった。そんなものか…と自分に少しだけ失望したような気がする。

其れが、今年の入ってから仕事の合間に縫っていた着物を仕立て上げた日に、喪失の現実がやって来た。いつもだったら、仕立て上げた日に写真を撮って先生に送る。反物がどこから来ただの、仕立てのどこが気に入らないだの、次にこれを着付ける機会はいつだの何だの。

受け取ってくれる人はもう居ない。LINEのメッセージは固定されたまま、あの日のまま動かない。私は先生の最後の弟子で、もしかしたら最初でもあったかもしれない。だって先生はお針子だったけど、教える人ではなかったから。私が押しかけて教えてもらっていたから。

着物文化は、もう日本人の日常からほぼ消え去ったと言ってもいい。観光や芸事の世界では残っているけど。私が先生から受け継いだのは、日常の着物。そして私の弟子はジャマイカ出身の女性一人だけ。でも彼女にだって、伝えられたのは私が先生からもらった中の 1/10 にも満たないだろう。

あの、和裁独特の「あのですね、袖口布の所の、留め糸を表地の前側の裏から通しますよね?あれって最初の針は留め糸まっすぐ横、きせ山でいいんでしたっけ?」とか日本語なのに何言ってるかサッパリわからない会話を一緒にしてくれる人は、この先もう現れないだろう。いや、厳密に出来る人は居るだろうけど、先生みたいな人にはなり得ないだろう。彼女は私の二番目の母親みたいな人だった。

先生に教わったことを書きしめたノートがある。私が他界したら、誰も読める人がいなくなると思う。世界の流れがそういう方向に流れてる。必要なものはスマホをタップすれば手に入り、配達料を払えば玄関まで届けてくれる。ファーストファッションの勢いは凄まじく、生地の価値も縫製の価値もだだ下がりしてしまった。手仕事では生活が出来ず、人は働きに出る。日常に余暇があった頃は趣味で嗜む風情もあったけど、昨今の世知辛い世の中で、それができる人がどれだけいるのだろう。

行き場のない想いを抱えてしまって、仕方がないので文章に綴る事にした。数人の友人達に励まされた所為もある。とにかく書けと。英語でも日本語でも、どちらでもいいから書けばいいと。

なので、とりあえず書いてみる事にした。

私の先生の事を。


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