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大駱駝艦北米カナダツアーに同行した話①出会い

大駱駝艦(だいらくだかん)という舞踏ダンスカンパニーがある。

全身白塗りと身体の動かし方が異彩を放つ舞踏は、初めて観るひとにとっては、ハテナマークがチラつく舞台だ。

意味が分からないと、ヒトは不安になる。結果、怖さや不気味さのみ印象に残る。そんな人が多いかも知れない。

でもね、舞踏。おもしろいんです。とっつきにくいだけに!?ハマると中毒性あり。大駱駝艦体験(あえてそう呼ぶ)機会あれば、ぜひ。
公式サイトからYouTubeも配信してます。

そもそも舞踏ってなに?って方がいるかも知れない。

舞踏→辞書では【洋風に舞い踊ること。ダンス】とある。明治時代、洋館で開催された舞踏会ってときのがこっち。

一方で、暗黒舞踏。土方巽(ひじかたたつみ)さんが創始者で、こちらも、一般的に舞踏と呼ぶから、ややこしいのだが。

でも、今では『BUTOH』として、欧米及び世界で、ひとつのダンス様式としてカテゴライズされているのだ。

おそらくカリスマだったであろう土方さんの弟子や影響を受けた者たちは、のちに舞踏カンパニーや個人ダンサーとして世界へ飛び出した。

なかでも2022年、旗揚げから50年を迎えた大駱駝艦は、日本を代表する一大舞踏カンパニー。老舗にして大所帯は他に類をみない。

率いるは、ドラマや映画で際立つ個性を発揮しまくりの

イラスト加工。さらに渋くなった

「このひとね!」の麿赤兒(まろあかじ)さんだ。

営業妨害と怒られるかも知れないが、私や私の家族は麿さんが大好き。こんな強面だが基本的に人として、とても心根が優しい。

幼い頃より「マーロしゃん」となついていた娘はいま、バースデーカードに「私の結婚式に出席してね、長生きしてね」と、自分のジイジにも言わないような優しいことを書いている。

さて、私が麿さんと初めて会ったのは、36年ほど前。大駱駝艦北米カナダツアーの裏方お手伝いand子守として同行した時だ。

知り合いのカメラマンが、麿さんと親しくて

北米ツアーにダンサー夫婦の赤ちゃん、幼児3人を連れて行くので、シッターバイトを探していると、連絡をくれた。

当時は、前衛芸術家となると、一般受けがあまりされてなかったのか

友達からは、そんな人らと一緒にアメリカツアーって危険じゃないの?取って食われるんじゃないかと、心配された。

が、声を掛けてくれたひとも同行するし、

なんてたって

お小遣い貰いながら、アメリカとカナダを周る機会なんてそうそう無い。ありがたい話だ。

それに、私は取って食われてなく無事。
(当たり前ですが。笑)

反対に噂と違うことが多くて日々驚いていた。

怖いメンバーなどひとりもいない。

みな勉強の出来る賢い人たち。休憩時間は黙々と絵を描いていたり、難しそうな本を静かに読んでいたり。

女性メンバーもみな穏やかな人だった。

しかし
いったん舞台へあがれば豹変、白目を剥いて、ほとんど動かず、内なる荒ぶりを表現。

舞台を仕事にする人たちと、初めて間近に接した私は、この落差に

おおっ【プロ】ってば、こういう人たちのことを言うのだと感動した。

麿さんは舞踏家・演出家であり俳優でもある。

麿さん二十歳を過ぎたあたりのある日
当時の熱き若者たちの溜まり場「新宿風月堂」で、新進気鋭の舞台演出家・唐十郎さんから、スカウトされる。

そこから唐さんの「特権的肉体論」を具現化する役者として活躍、今に至る。

このスカウトされるくだりは、麿さんの著書に詳しくある。

少し引用。

【ゆで卵をむいたような皮膚に、大きな澄んだ目が異様な光を放っている。〜略〜「失礼します。私、カラジュウロウと申します。これを読んでいただけませんか」と、これまた透き通るようなテノールで言いながら】

『怪男児 麿赤兒がゆく』(麿赤兒著 朝日新聞出版、2011年)

そのとき麿さんは、ロン毛!だったらしい。

この、麿さん曰く『運命的な出会い』のシーン。タイムマシンがあったら覗いてみたい。著書には寺山修司さんたちとの渋谷乱闘話など、ほかにも貴重な話が盛り沢山。
〈絶賛おススメです〉
表紙、、これまた怖いんですが。

40才くらいまでの狂喜乱舞時代のことが中心に。最後の章では2011年までのトピックスも。


来週からは、大駱駝艦北米カナダツアー同行したときの体験記、おもしろエピソードなどなど書いていこうと思う。

1987年へGO。

【表題の写真は、初演の地ロサンゼルスUCLAでの記念撮影】

               つづく





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