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ー村上春樹〈約束された場所で〉を読み終えてー

村上春樹〈約束された場所で〉

オウム真理教の信者、元信者8人に村上春樹がインタビュー行い、それを文章化し社会のあり方に一石を投じるというノンフィクションのお話であった。

「もうこれ普通の社会と同じやん。」

みんな俗世が嫌になって出家して、現実社会との接点を一切断ち、施設に籠って厳しい修行という名の労働をするんだけど、より早く階級が上がっていくのは、男は学歴が高い人、女は綺麗な人という俗世によくある現実ということに驚いたと同時に妙に納得した。

教祖麻原彰晃は、相手に合わせた説法の仕方、態度、話し方ができ、人を操る能力が高かったらしい。また、その人が現実社会で得てきた能力、職業を生かした労働与えることでやりがいも与えつつより効率的なシステムを作り出す経営の能力もあった。

そうやって出来た集団は、もはや人間社会そのものになる。ただ、決定的に違うのは、みんな志が同じということ。現実世界で、真理はどうこう言っても笑われたり、流されたりするけれど、そこではみんなが共感し、理解してくれた。それってすんごい嬉しかっただろうし、みんながインタビューで口を揃えて言っていた「充実感があった」っていうのはそうゆう認めてもらえたっていう部分も大きかったと思う。

私達が生きてる社会という箱があって、そこから何らかの理由ではみ出た時に、別の箱としてオウム真理教という社会があり、ユートピアに見えるようで人が集まることで結局同じようなことが再現されていたという皮肉というかこれが必然な気もした。

「煩悩ってあってもええんちゃう?」

 インタビューがその人の生い立ちからオウム真理教との出会いなど、生の声で語られ、もちろん8人みんなそれぞれの人生があるのだけれど、どこか思考というか人柄に共通点があった。自分なりの理論にこだわりがあり、真面目でピュアということだ。だからこそ、現実社会の矛盾に耐えきれなかった。そして、煩悩を捨て悟りを開くことに強く惹かれるようになる。

無知の私からしたら、悟りを開きたいって思うことが1番欲深いんじゃないかなって思ってしまう。満ち足りない気持ちとか物足りなさとか自責の念とか、そりゃもちろんあるけれど、それをホールディングしながらものらりくらりすることってすごく大事だと思った。

厳しい修行によってどんどん自我を捨ててそれによって、なんにも考えれないロボットが出来上がる。それを操ることほど簡単なことって無いと思う。しかも、それに対して信者は心地よさを感じている部分があった。上から言われることをただ聞いていれば、行動の責任は自分にない。自分の行動、決断に責任を取るってすごい大変なことだけれど、それを放棄することが本当にいいことなの?1人1人煩悩あってもええやん、それが自分らしさやんって思って、色んな感情をホールディングする力をみんなが持ってる世界になればいいなって考えた。

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