名前だけのひと
アイスコーヒーがからりと音を立てた時、純生くんは言った。
別れよう。
私は吹き出してしまった。
これではしょうがないよ。
彼はええ、と声を出して不服そうにソファにもたれた。
もうちょっと信ぴょう性を持っていってよ。練習にならないじゃない。
だめかなあ。こんなもんだと思うけど。
真面目にやらないと単位取れないよ。来週でしょ、リハーサルは。
まじめだよ、僕は!
純生くんは笑いながらアイスコーヒーを手に持った。口の方までゆっくり持っていき慌ててテーブルに置いた。
ときちゃん、忘れてた。あれ。
ああ、はいはい。
たっぷりでお願いします。
はいはい。
私は、いつものようにフレッシュの口を開ける。レジ横に「セルフ」と書かれた木箱。そこから2つ持ってきたのだ。2つとも、純生くんのものである。この箱があるから、私たちはこのカフェによくくる。
別に店員さんに言うのは構わない、と私は思う。すみません、フレッシュ2つ、というだけだ。でも、フレッシュを1杯のコーヒーに2つも入れるなら、無人の方がいいと純生くんはいうのだ。
だってなんだか悪いじゃない。普通、こういうのは一人一個でしょ。常識的に。
そう、私は別にいいと思うけど。
もしかしてときちゃんは、牛肉を1パックも買ってないのに平気な顔して牛脂を持っていく人?
鷲掴みにして、家で牛脂チャーハンを作ってる人。
ああ、わかった。僕、そういう人知ってるよ。
彼はその大きな白い鼻を手で隠すみたいにして笑った。お母さんのことだなって思った。純生くんのお母さん。
いいじゃない。だってご自由に、って置いてあるんだから。
それをさ「お店側は好きで用意してるんだから、持っていったらむしろ嬉しいよ」っていうんでしょ。
そうじゃないの?
真剣に問いかける私を見て、今度は手で覆わないまま笑った。純生くんはお母さんの話が好きだ。ずっと一緒にいたお母さん。お母さんしか一緒にいる人がいなかったのだ。
彼とは17歳の時に出会った。出会った、といっても一度も口を聞いていない。顔も知らない。名前だけ。
純生くんはいつも名簿の中の人だった。柿崎くんというとても人気のある男の子がいた。私だって、柿崎くんがいなければ、正直、純生くんの名前すら知らなかったかもしれない。柿崎くんのその次にぽつりと並んでいる草川純生という名前。そんな人がいるんだなあ、と他の生徒と同じように思っていた。
でも、それだけだった。草川純生は名簿に載っている人で、席にはいなかった。
ある昼休み、一緒に弁当を開けた町田さんがこんなことを言った。
ねえ、柿くんの次の。なんだっけ。草川、とかいう人。いつか学校にくるのかな。
え?さあ。
私は、ひじきの煮付けだか厚揚げの煮付けだかを箸でつまみながら曖昧に答えた。
町田さんは悪戯っぽい目をこちらに向けて、私に顔を近づけた。
どうする、すっごいイケメンだったら。
私は、会ったこともない人を「もしイケメンだったら」と空想を広げるだけの能力に感嘆してしまった。これを自分は持ち合わせていないな、とはっきり気づいたりもした。
さあ、だって。会ったことがないし、名前だけじゃあ・・・ねえ。
いっか、あんたには柿くんがいるもんね。イケメンは一人いればいいのよね。
町田さんだって、柿くん柿くんって毎日うるさいくせに。
しっ。来たよ。
私たちは弁当の続きを食べながら、宿題が多いだの夏休みは何をしたいだの、何気ない話題に花を咲かすふりをした。その時は決まって、柿崎くんが数人の男子生徒と通り過ぎたものだ。
今、柿崎くんのことを考えていたでしょう。
純生くんの襟足のなかにはひと束だけぴんと跳ねたものがある。
うん、そう。どうしてわかったの。
ときちゃんが黙る時はだいたいそうだよ。最近は特に。
彼は、その少し厚めの唇にストローを挟んだ。クリームを混ぜた茶色い液体が、半透明のストローの中をすうっと上がっていく様子が見えた。
ちがうわよ。私が思い出してるのは、柿崎くんじゃなくて、柿崎くんの次に名前を連ねた謎の人よ。
ここにいるじゃん。
自分の鎖骨のあたりを指さして、純生くんは笑った。
うーん、厳密にいうとちがうな。いま会ってる純生くんとはちょっとちがうの。あの時は名前だけだったあの人。いつも名簿が配られるときだけ現れるあの人のことを考えているのよ。
名前だけの人、かあ。
卒業証書もね、柿崎くんが手渡された次の1枚はどうなったとおもう。先生がなんともない様子でさっと伏せたのよ。教壇の上に。
教壇の上。
彼は遠い昔に見たはずの教壇を想像するような顔をした。
教壇のね。木製の天板に伏せられた卒業証書にはきっと、草川って人の名前があるわ。墨できれいに書いてあるのよ。その人はこれをどうやって受け取るのかしら。そもそも1日も登校していない様子なのに、卒業なんてできるのかしらってね。
純生くんはこらえきれないようにふふふ、と笑った。
見たこともない人のことなんて考えなくていいんだよ。ときちゃん。今、目の前にいるだろう。名前も顔もよくわかってる相手が。
そうね、いるわ。
私は純生くんが片手に持つ透明のグラスと同じものを手に取った。二人の手の中におさまるコーヒーのグラス。急に持ち上げられたそれはやっぱりからからと音を立て、テーブルには可愛らしい丸い水滴だけが残っている。
名前と顔だけじゃない。あご髭の生え方や、口癖も。ペニスの形までよく知ってるんだ。それなのに、名前しか知らなかった誰かを思い出す必要があるのかい。
彼の口からペニス、なんて言葉を聞いてもまったく淫猥に聞こえないのはきっと同じ理由だろう。彼がセックスを始めるとき、何も考えていないような顔でそのグレーのTシャツを脱ぐ。そこから白い胸が現れて、それは汗に濡れずいつも新鮮な空気をまとっている。それと同じ理由。
私たちが、すごくいやらしいことをすることなんてあるのかしら。
純生くんはすっかり空になったグラスをテーブルに置いた。ころころ、と氷だけが転がって私たちの関係を形容するにはぴったりの音だった。
それよりもずっと、やらしいことをしていたじゃない。ときちゃんは。
なによ。
柿崎くんを見ながら、僕の名前を反芻していた。彼のシルエットと、名前だけの人物の謎。それを頭の中でまぜこぜにしていたんだ。
それっていやらしいことなの。
私は片方の眉をあげながら、口はストローをくわえた。
いやらしいさ。そして僕たちは今からときちゃんのアパートに行って、もっといやらしいことをするつもりだろ。
彼は立ち上がって私の口からストローを引き剥がし、くわえた。底にたまったコーヒーをずずずっと吸いきる。
返却コーナーにトレーごと運んでいく彼の後ろ姿を見ると、こうして当たり前のように外に出られるようになってよかったなあと思う。彼と陽の光を浴びること、窓を開けて路地を見下ろすこと。彼の口からペニスという言葉を聞くことその全てが楽しい。
それはきっと、それができない時があったと二人が知っているからだ。今の私と、あの教室にいた私。その二人がよく知っているからだと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?