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大好きなことは自分のためにするんだよ

私は絵を描くのが好きだ。
これははっきり言える、描いているとすぐに「これが好きだ」とわかる。形ができて、背景に色が付く。そのうえにまた形をのっけていく。また色を付けて少しずつ小さな世界が形成される。


その繰り返し。子供がシーソーで上や下に、いくらでも楽しめるように。ブランコで前や後に、いくらでも飽きないように続く。


この数日、ずっと絵を描いている。

お父さんと仲良くなってから、絵がよくかける。すごくよくかける。

お父さんもお母さんも私のことを大好きであると知ってから、絵に迷いがなくなった。不思議だけど、絵ってそういうふう。


ふつうなら、練習すれば上達する。勉強すれば点数は上がる。

でも、絵はちがう。不思議だけど。


練習や勉強ではよくならない。スキルは上がるけどそもそもスキルがほとんど関係ないジャンルだからあまり意味がない。美大にいって絵を学べる環境にいるのに絵が嫌いになる、むなしくなる、と思う人が多いと聞くけどなんだかわかる気がする。

それよりも自分が変わることや生活が変わることのほうがずっと影響する。


具体的にどう影響するのかっていうのを、今から見せてみよう。

例1:スパゲティを無理やり口に詰め込まれている

例えばこのイラストは5分くらいでぱぱっと描いて、気に入らなくて消して、また描いてを繰り返したもの。


手に取ってほっこりするようなポストカードのデザインを描きたかったのに。いつのまにか誰かが無理やり口にスパゲティを突っ込んでいる絵になった。気分はよくなくて、それが絵に反映されたと思う。


もちろんこんなのはポストカードにはできない。でも私はファイルを取っておいた。いつか描き直す時があるだろうって思ったから。


昨晩、描き直してみた。ファイルを開いて新しいレイヤーで上書きした。

そしたらこうなった。


まだ下書きだよ



次は、このイラスト。やっぱり描いて、消してを繰り返してこんな風になった。

タイトルはたしか「情けなーい」だった


昨日、描き直してみたらこんな絵になった。


これもまだ途中。下書きだけでもすごく楽しい



さらにこんな絵もあった。ウサギを描きたくて描き始めてみたら、何度試しても気に入らない。もっと可愛くしたい、素敵にしたい、って頭の中では思うのに、耳が大きくかじられている。痛々しくて描くのをやめた。


絵の雰囲気は好き。でもどこかにノイズを残さずにはいられなかった


それはおとといに、こんな絵になった。

だれかに小さな贈り物をするような、そういう気持ちで絵が描きたい


絵が「よくなった」かどうかというのは見る人次第だ。前の絵の方が好き、という人だっているかもしれない。でも、私が絵を好きで夢中で描きたいって思ってる気持ちそのものは、後者の方が伝わるんじゃないかな。実際に、そういう気持ちで描いたから。





絵を描く人というのはもともと絵が好きな人だ。絵が苦手で嫌いなのに、わざわざ描こうなんて思わない。

絵が好きな人というのは苦労しなくても上達する。どんどん描くからだ。私も「絵を描くこと」そのもので苦労したことは一度もない。


ただ、ゴールが見えなかったり、見えてもそれに到達しないことで苦労はする。でもそれはスキルのせいじゃない。


絵は心がすごく影響する。


私は今まで、辛い時ほど絵に頼ってきた。絵が救ってくれると思っていたし願っていた。それにはちょっとした根拠があった。


苦労が多くて死の淵にいるような人ほどいい作品を残す。そんな傾向があると勝手におもっていたからだ。ゴッホでもシーレでもベーコンでも。


もうぎりぎりのところを歩きながら、絵を道連れにしないと生きられないような人たち。そういう絵をよく見て自分の励みにした。


反対に、すごくハッピーでうきうきしているばかりの絵描きはいない気がした。だから、わたしにはもってこいなんじゃないか。そう思っていた。


20代はとくに辛い時間が多かったから。辛い時間があればあるほどうまくいくジャンルがあるなんていいな、と思った。


でも予想とは裏腹に、絵はどんどんダメになっていった。思い通りにならないし腐っていくみたいに価値を失う感じ。


私が描きたくないもの、見たくないものばかりが目の前に現れる。人から「いいね」と言われても嫌だった。絵はたくさんたくさん捨ててきた。もったいない、といわれても気にしなかった。


私は私の絵が好きではなかった。私の心の中なんて見たくなかったし、分析も開示もどうでもよかった。


でも、どうしても自分を見捨てられなくてかわいそうで、救ってあげたかった。それでやっぱり絵を描いて、嫌いになって捨てた。その度に、自分から出た「助けて」もいっしょに捨てているような気がしていた。


今、私は絵を描いていて、それは不思議と私を苦しめない。それどころか背中に温かい手が置かれているような、背中をさすって少し押してくれるような。

目の前に現れて「もうちょっとやってみなよ」という。私はそれに従って、もうちょっと描いてみて、また手を止めてみるとその絵が好きであることに気がつく。



「頭の中、お花畑だね」

とても若い頃、好きな絵を描いていたらそんな風に言われたことがある。

今、はっきりとわかった。私はそういう絵が好きなんだ。自分の頭の中のお花畑が大好きだ。


お花畑を軽視する人だっている。何歳までそんなことしてるの。現実は甘くないよ。

そんな人ほど、頭の中に1本も花が咲いていない。咲かせることができなかったのだ。蒔かなかったから。


私は蒔いた。苦労も努力も必要ない。ただ、蒔くだけ。時間もお金もかからなくて、一瞬で終わる。

それはすぐに芽吹いて、季節を問わず爛漫と咲く。風に揺れている、雨も降る。枯れてもつぎつぎと咲く花。終わらないお花畑。


残念ながらいいことばかりじゃないから、私の人生が花のように無垢で美しいものだったとは言えない。

だから絵は私を映し出している訳ではないんだと思う。


でも、作るのは自由だ。自分の中の井戸を覗き込まなくていい。暗闇の中にいなくてもいい。

ドアを開けて、ずっと外を見ていればいい。この世は自分1人だけじゃないんだから、自分の問題や癖なんてものは放っておけばいい。


もっともっと外を見て、自分とは関係ないところに飛んでいくみたいに。自分だけじゃない、そこに広がる世界がある。


それだけを見ていればいい。自分は世界の一部だから、空とか、犬とかクッキーなんかを見ていると、そこには小さな自分がいたりする。


小さな頃の微熱がこっちをみて手を振っている。

(私は小さな頃、すべての髪の毛が立っていたらしい。それで「パイナップルちゃん」と呼ばれていた)


その私がこっちをみて手を振っている。前歯が2本抜けている。


そういう自分を見ていればいい。
お父さんとお母さんに愛されて、大好きな絵に愛されてずっと描いていればいい。

好きな方法で好きなものを描くことの、なんと楽しくて心地の良いこと!


絵はもともと、地下にあった墓に描かれた。墓の壁に絵が残っていた。

だれかが、文字ではなくて絵を描いた。誰かの影を描いて何かを後世に残そうとした。その時から始まった、苦悩と喜びの歴史。


私はその一部にいて、誰にも知られないまま描き続けていく。無名の小さな小さな画家は、たまたまnoteという場所で仲間を見つけ、その人たちにみてもらい、ファンに恵まれて満足しながら描き続けて一生を終えていくんだ。


それってめちゃくちゃいいね!



つぎの記事で、私がこれから挑戦したいことをまとめてみます。
みんなのアイデアや知っていることも教えてくれると嬉しいです。カオスな頭の中を整理して書くからちょっと待っててね!

お楽しみに!


ちなみにこの絵は・・・



こうなったよ!



美味しいクッキーをもっともっと描き足していくよ!


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