見出し画像

思い出せない夢ととても幸福なそれ

彼が現れてから、私の世界は変わった。


私の世界というのは、つまり、この狭い界隈のこと。
草が好きなように生えている公園とか、ホームレスがビニールシートを張っている空地とか、タイヤが転がっているゴミ捨て場とか、アスファルトがはがれ始めている道路とか、そこだけは赤がくっきり映えている止まれの標識とか。


そういう見ても触ってもなんの特にもならない、アイテムの数々。この小さくくすんだ世界。



東京なのに、どうしてこんなに古ぼけているんだろう。どうしてこんなに、情けないんだろう。


高校生だった私は、上京すれば全てが変わると思っていた。どこもかしこもきらきらしている、なんて月並みなことは言わない。東京だって大きな街だ。いろいろな場所があるのはわかっている。



でも、こんなにも?
私が生まれて育ったあのつまらない町はどうやら私が背負って連れてきてしまったようだ。これが、あの憧れの東京だなんて。あの町をでるときにはまさか想像しなかった。


「あの町、なあ。」


彼は剥がれたアスファルトの上を、その先の尖った変な革靴で歩いている。


「これ、蹴らないようにしろよ。さっちゃん。石ころとか、な。なんでも、硬いものが爪先に当たると、それが飛んで当たるだろ。子供とか、車にな。車なんて、誰が乗ってるかわかんねえからな。」


彼もこの街に出てきて、何かしら学ぶことがあったようだ。人は失敗をして学ぶ。そんなことは知っていたはずだけれど。
こんなことがまさか失敗になるんだ、と思うようなことが、それこそこのアスファルトみたいにゴロゴロ転がっていて、この街は、抜き足差し足でなければ前に進めない。

「人はね、遠くに住むともう会わなくなっちゃうんだよ。」


捨てられる女みたいな口ぶりに自分でも驚いた。


「そんなこたぁ、ねえだろうよ。」


別れ際の男は優しいのだ。




彼は、私のなんでもない。
ただの、同じ田舎から出てきた男だ。


本当はまだ青年って言いたいところだけど、仕事柄もういろいろと経験しているだろうから、男っていうことにする。高校の時は口を効いたこともなかったのに、たまたま同時に東京に出てきて、たまたま同じ建物に越してきたというだけで、昔からなんでも知っているみたいな口ぶりなのだお互い。


「会えないんじゃない。会えるよ、でも会わなくなっちゃうの。」


ホストで結構いいところまでいっているんだって。下っ端から卒業して、ちょっとチャンスが与えられてるみたい。興味もないから詳しく聞かないけれど、そのチャンスをものにするためにはもっと都心に住まないといけないんだって。


「女の子いたときに、こんな場所のこんなアパート住んでるってバレたらもう指名もらえないもん、俺。」


そうだよね。こんなアパート。


すごいもんね、壁が薄くて隣の部屋の会話に参加したくなっちゃうくらいだもんね。近所の溝には子猫みたいな大きさのドブネズミとかうろちょろしてるし。それにもう、この界隈すべてが。


「そう、沼だよね。湖じゃなくて池じゃなくて、沼。全部濁ってて、足をとられるの。一歩先にはなにがいるかわからないし。」



「そういう表現、ホストとしてはウケないんじゃない。だってなんか」
やっぱり、剥がれたアスファルトは蹴りたくなる。


「詩的かつ凡庸?」
「そう、それ!」


次のシーンは普通、こうだろう。「そして二人はけらけらと笑った。」


高校を卒業して、大学生になって、親の名義でアパートに住んでるなら、きっとそういう笑い方もできたんだろう。でも私たちはそうじゃない。

彼は鼻をふん、と鳴らすだけで終わった。それがいつしか彼の笑い方になったのだ。


「詩的かつ凡庸!」


それは、現代文の教師がよく言っていた台詞だった。あるとき、詩を作るという授業があり、同じクラスの同級生たちはものを作れる人と作れない人にぱっくり分かれた。私は作れない人に属し、彼はどっちにいたのかすらもわからない。


あの時、彼はどこにいたんだろう。どの席で何を。
私たちは、埋もれた生徒だった。誰にも気づかれないような、名前を呼ばれないような、そういう。


「ホストになったばかりの頃、みんなから辛くない、って言われたんだよね。酒飲みまくって、吐きまくって、蹴られて馬鹿にされて。違うんだよ。全然嬉しかったの。」


赤い逆三角形の標識。止まれ、が止めて、見えた。


「だって、名前呼んでもらえるんだよね。」

名前。
「だって、その名前本当の名前じゃないでしょ。なんだっけ。」
「マグマ。」
「そう、まぐま。自分の名前じゃないのに、嬉しいもんなの。」
「嬉しいよ、俺。本当の名前もう覚えてないもん。」
「よくいうよ、お上りさんが。3年前はあの町で一緒に授業受けてたでしょうよ。」
「それが、忘れるんだよ。覚えてないの。お前だって俺の名前、覚えてないだろ。同じことだよ。」


彼は、コツ、コツ、とその靴のかかとを鳴らしながら、細身のスーツのポケットに手を突っ込んで私と並ぶ。目の前に少しずつ見えてきた、私たちのアパート。


薄水色のペンキがもうほとんど剥がれたらせん状の階段。絶対に開かない小さな窓。その窓からのびる雨汚れ。錆びた手すりにかけられたビニール傘には雨水が溜まって、中には何か黒い生き物が住んでいるみたい。こどものおもちゃが散乱しているが、このアパートに子供はいない。


「名前呼んでもらえるのってそんなに嬉しい。」


「嬉しいよ。自分でつけた名前だもん。指名が入った時はもちろん嬉しいし、先輩に馬鹿にされる時とか、怒鳴られた時ですら、やっぱうれしいね。」


彼はどうする?という目で私の部屋を顎で指した。


「無理。すっごいぐちゃぐちゃだから。」
「さっちゃんは物が多すぎるんだよな。」

また、鼻でふん、と笑って手招きした。



彼の背中についていった。痩せて、不憫な背中が吸い込まれていく部屋はすでにがらんどうで、薄っぺらい毛布だけが床につくねてある。


「明日なんだ、出るの。もう業者も来て、あとは明日、鍵返すだけ。」


意外だけどすぐに酒は飲まなかった。まだお湯が出ることがわかり湯船にためる。



「せっかくだからさあ、さっちゃん。今日は一緒に入ろう。俺たち、今までこういうの一回もなかったじゃん。」


たしかに。
この人とは、なかった。この先もないだろうと思っていた。


「別に初めてってわけじゃないでしょ。俺なんて、別に乱暴するわけじゃないし。優しくするよ。見た目はこんなだけど、高校の時を知ってるさっちゃんなら、別に怖くないだろ。」


そう、彼は怖い。別に顔中ピアスだらけってわけでも、背中に龍が這ってるってわけでも、小指が半分ないとかでもない。本当に服を脱いで仕舞えばただの細身の青年だ。でも、なんとなくそう思わせるのはどうしてだろう。


きっとつり目で、頬骨が妙に飛び出していること。髪の毛と一緒に眉も脱色しているから、目つきが悪くみえること。手の血管が妙に浮き出ていて、地下でうごめく動物みたい。無理やり掴まれたら逃げ場はなさそう。
でもそんな男は、この街には腐るほどいて、だから彼が怖く見える理由にはならない。


彼が待っているバスタブに足を入れた。お湯が熱くて、明日になればこの熱も、水すらもこの部屋を流れないと思うと、足の先がいつまでも温まらないのだった。



「アパートも一緒に生きてるみたいだね。明日から血が通わないと思うと。」
「詩的かつ凡庸!」と彼はペニスを揺らしながら笑った。



さっちゃんにはないの、そういう名前。
名前?
自分で自分につけた名前だよ。
ないよ、私ホストじゃないもん。
もったいねえな、自分でつけなきゃ。じゃなきゃさっちゃん、この先もずっと、その名前で生きていくことになるぞ。


バスタブは狭いので、出た。でも体を拭くものがないから、彼に舐めてもらった。その薄い毛布を床に敷いてその上でセックスをした後、またバスタブに入って舐められた。


「お湯の味。」


舐めるのが好きなんだな、それとも、それしか知らないのかな。
彼が今までも、この先も、客の女と一回限りの夜を繰り返すことで、いっぺん通りの行為しかできないのだとおもうと、ひどくいたたまれなくなった。

最後は言われた通り、首に出してあげた。


あとのことはあまり覚えてない。買ってきた酒を飲んだか、コンビニのたこ焼きを食べたか、壁にもたれて何か話したか、どうだったか。
私たちはいつの間にかその薄い毛布にくるまって体をぴたりとくっつけていた。きれいとは言えない部屋の壁がより一層遠くにみえた。


つり上がった目を半分閉じながら、彼は耳元でつぶやいた。


1日でもいいから。

明日1日でいいから、自分だけの名前でいてみろよ。今の名前を忘れるの。そしたらこの先、どんなことがあってもうまくいくよ。何も怖くない。全てがさっちゃんの味方になるよ。

でも、思い出しちゃわない?

もし思い出しそうになったら、頭をね、こうやって小さく横に振るの。
そして目を閉じてね、自分がこうありたい、っていうシーンを思い描くのね。
そのイメージの中にいるさっちゃんは笑顔なの。その笑顔が作る目じりの皺からゆっくりズームアウトして、ずーっとはなれて、最後は街全体がカメラに収まるように、どんどん離れていくの。

うん。

そしたら、簡単に忘れるよ。

うん。


忘れていることすらも、忘れるから。


耳元で聞こえるこの男の声を、私は何も知らないまま最愛とすることにした。




目を開くと、世界がまだ無音で湯気の色をしていた。徐々に瞼に力が戻る。
毛布をはねのけて、起き上がると背中が思った通りに痛い。


立ち上がって、何かを食べようかと思うと冷蔵庫がない。洗面所に立っても洗顔がない。タオルもない。家具も、食器も何もかも。


そうだ。私は今日、ここを出ていくんだ。


歯ブラシもないから、指で歯をこする。きゅむ、きゅむ、と音がする。こんな汚いアパートに住んでいるのに、自分の身だけは綺麗にしておきたいっていう私はなんなんだろう。

名前を思い出せる?
まだ。まだ思い出せない。

目を瞑って、頭を小さく振る。
頭の中には笑顔の私がいた。輝くアスファルトの上で沢山の男性客に囲まれた私。だんだんズームアウトして、ビルの明かりも行き交う人々も、塵みたいに動き回るタクシーも、すべてが闇に包まれていった。


たしか、夕べ。誰かと一緒にいた気がする。誰もいないはずのこのアパートに誰かが一緒に入ってきて、セックスをした気がする。でも本当は知っている。夢から覚めないように気をつけながら指でしたのだ。


お客さんに買ってもらったブランドのトートバッグに、スマホと充電器を突っ込んだ。コンビニのゴミをさっきまで潜っていた毛布で包んだ。鍵をかけて、本当に忘れ物はないかと確認している自分がいる。本当に鍵を郵便受けに投げてしまってもいいのか、と。


こういうときに、迷ってるようじゃこの先やっていけないよ。


鍵を投げ入れ、顔を上げ、しまった。舌打ちをした。


そこには名前があった。私の名前。表札をはがし忘れていた。顔をしかめ、爪の先で破るように剥がした。手の中で小さく小さく潰す。


ヒールが鳴り響く階段はすっかり錆びていて、もうこれを登ることも降りることもしなくていいのだというのに、心底がっかりしていた。今からでも遅くない。私は目を閉じて、小さく首を横に振った。



しかし、やっぱり、私の名前は今ここにある。この冷たくなった指の中に、小さく硬く握られている。


毛布をゴミ捨て場に投げた。
先ほどまで身体を包んでいたそれはぶざまに形を変えて、汚れた地面にへばりついた。舞い上がる埃が光に照らされるのを見ながら、目が覚める前なにか幸福な夢を見たような気がして、いまはそればかり思い出そうとしている。








これは毎週末に開く執筆LIVEで書いたものです。

日時:土日20時から21時ごろまで
場所:スタンドエフエム「微熱ラジオ」
流れ:25分集中→5分休憩→25分集中→5分雑談

おかげさまで10日を迎えました。次はDAY11。5月4日からスタートです。

どなたでも参加できます。やりたいことがあるけど、なんとなく後回しにしがちという方は一度きてみて、ぐっと集中してみるのも楽しいですよ。


ご興味あれば、ぜひお待ちしています。微熱


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?