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「越境して学ぶ」ということ(前編)

担当:中山

こんにちは。スタッフの中山です。
本日は教員を辞めてNPOに転職した私のキャリアについて、少しばかりご紹介したいと思います。

・出会いと夢

 そもそも私が教員を目指すようになった理由は極めて単純で、「いい先生に出会ったから」でした。
 具体的には、小学校のときに所属していた陸上部で素敵な先生に出会い、教員を志しました。
 中学校に上がると、最初に担任してくれた先生が社会科の先生で、まさに「型破り」な先生でした。彼に憧れて、社会科の教員になりたいと思うようになりました。
 そして高校に入るとバスケットボール部で恩師と呼べる先生に出会いました。
その時の監督の先生はかつて千葉県でインターハイ・関東大会最多出場の記録を持っていた名監督で、人としても教師としても、私はこの先生以上の存在をまだ知りません。
 この先生の背中を見て、ついに「高校教員になり、社会科を教え、バスケットボールを教える」という私の夢が固まりました。
 しかし、ここまででおそらくみなさんもお気付きのように、教員という道以外に人生を考えたことはほとんどありませんでした。

・教員時代の挑戦

①新しい授業の形
教員になってからは、かつて私が出会ってきた先生たちをモデルにしながら、「理想の教員増」を模索していく日々でした。
具体的には、今までのような「教員が一方的に講義し、ひたすら生徒が書き写す」という授業のあり方には懐疑的だったため、いわゆるアクティブラーニングの理念や手法について、徹底的に学び、実践しました。
学会・研究会などにも毎週のように参加し、新しい学びのあり方を自分なりに考えてきました。
ただ、そのように学校の「外」の先生方や大学の教授たちと交流していくうち、「学校」という世界がいかに狭く、閉鎖的空間かをつうかんするようになりました。
徐々に、「外」への意識を持ち始めたのはこの頃です。

②学校外での活動
そんな時、経産省の報告書や色々な本などのなかで、しきりに「越境する学び」が提唱されていることを知り、これだ!!と思いました。
「越境する」という言葉には2つのこと含意されていると私は理解しています。
1つは、当然ながら「境界を越える」ということ。
社会全体として、グローバル化によって「国境」が低くなり、ビジネスの世界でも「協働」が増加しています。当然、学校もそうあるべきだと思いました。
そして2つ目は、「境界を意識する」ということ。この観点は意外と抜けがちのように感じますが、「境界を越える」というからには、当然のこととして「境界を認識する」ことが欠かせません。
つまり、「越境」とは「境界を認識した上で、それを越えていくこと」だと思うのです。
この前段がないとどうなるか。それはまさに「型破り」な人は実は「型を知っている」ことと同じだと思うのです。型を知らない人がいたら、その人はただの「破天荒」あるいは「非常識」です。型は、認識してこそ破ることができます。
同じように、今学校にできること、すべきことは何なのかをしっかりと考え、実践した上で、時にそれを越えていくこと。それこそが「越境」なのだと考えるようになりました。
 そこで、「学校ですべき学び」のレベルを上げていくと同時に、私自身が「境を越えて」外の人たちと繋がり、学ぶべきだと思いました。
 私は公民科の教員であり、主権者教育に特に力を入れていたことから、地元の議員さんや市役所の人たち、まちづくりに関わる人たちと交流するようになりました。
そして、大学生のための政治塾(コミュニティー)を立ち上げたり、地域の課題解決を考える授業を実践するようになりました。
 また、弁護士や起業家、財務省の官僚、市役所職員、議員など、多くの人に学校に来てもらったり、授業に関わってもらうようになりました。
結果、生徒からの評判もよく、学会や研究会でも話題になることもありました。
一方で、私自身は物足りなさも感じていました。
 例えば、教員は副業規定があるため、ビジネスの世界をがっつり学ぶことは容易ではありません。海外には例えばアメリカ・カリフォルニア州におけるJob Shadowのように、教員がビジネスの世界で学び、コネクションを作る制度もありますが、日本にはほとんどないのが実情です。
また、政治的中立性に関する規定があるため、特定の候補者や政党を支援するような活動をすることもできません。

そこで、私は一度教員を辞め、民間に就職することを決めたのです。