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サッカーの見方1: 名選手、名監督にあらず

 連続的になんとなく書いていくシリーズになります。

 まず、簡単に自己紹介になりますが、私は、サッカー観戦歴10数年になる者です。海外、欧州問わず広くみているつもりです。プレー経験は小学生のときに習っていた程度です。小学生のときは、いわゆるワーワーサッカーでドリブルができる子がボールを持っておしまいというようなもので、体力がなく喘息もちの私は、それに馴染むことができませんでした。その後、年を重ねるにつれて。ワールドカップなどを観戦するうちに熱をいれてみるようになっていきました。

 私がサッカーに惹かれていった要素に、監督があります。幼いころにやっていたものにそうした要素がなかったせいもありますし、あの時、コーチがこうして指導してくれたら、もっとサッカーが楽しくできたのに、なんて思いもあります。
 そして何より、サッカーの監督はシンプルにかっこいいのです。批判するつもりはありませんが、野球の監督は選手と同じユニフォームを着るのが普通です。サッカーの場合、大抵の監督はスーツを着て、選手とは一線を画し、選手のように時に熱く、時に戦略家として、一流のビジネスマンのように冷静にふるまうのです。

 野球続きで悪いのですが(その理由は、私が野球も好きだからです)「名選手、名監督あらず」という言葉があります。正しい由来は分からないのですが、昭和のプロ野球に登場した言葉だと思います。

 過去に選手として輝かしい結果を残した名選手でも、なぜか名監督にはなれない、これはサッカーの世界にも当てはまりがちです、というか、他のスポーツにも、一般社会の役職にとってもそうです。経済的成功を収めても、優れた政治家なわけでもないし、頭脳明晰な生徒が、優れた教員になれるわけでもない。

 もちろん必ずしも、というわけではない。いくらか例を挙げることはできますが、直近の欧州サッカーでいえば、今年レアルマドリードで、カルロ・アンチェロッティ。ブンデスリーガを無敗で勝ち取ったシャビ・アロンソ。
 ぶっちゃれば、この言葉はじゃあ、意味のない評語なんじゃないか、となるわけですが、やはり見事に、当てはまる人が出てきてしまうわけです。彼らは数少ない例外だといえます。その理由として、挙げればキリがなく妄想にもなってしまうのですが、名監督に指導を受けているの一つ理由としていえるかもしれません。シャビは、モウリーニョとペップ、現代サッカー最大の頭脳二人ともに指導を受け、アンチェロッティは、ゾーンプレスの生みの親、サッリに指導を受けています。

 では、次からつらつら名選手が名監督にならなかった例について書いていきたいと思います。

 ・選手との視点の違い
 名選手というのは、アスリートとして、どうしても他人より優れた感覚を武器にして戦ってきました、才能というのは、どうしてそれができるのか、一般人には理解できない領域です。
 免許皆伝みたいにできたら、彼らも楽なんでしょうけど、いかんせん特別な才能であって、それを言語化することに別に秀でているわけではないし、感覚でやっている部分が大いにある。名選手の視点からしたら、どうしてこんな簡単なことができないんだ、と逆のこと、ギャップが生まれるわけです。

 ・縦社会
 これは海外がどうか知りませんが、ジェネレーションギャップとして、どうしても厳しい縦社会で育った世代と、今のスマホ世代では、考えていることが違います。厳しく指導したところで、そこに信頼関係がなければ何の意味もないし、求心力の低下につながるだけです。

 ・やばい時期に頼まれがち
 名選手は、チームがやばいとき(成績が落ちている時期)に頼まれがちです。これは特にサッカーならではかもしれません。サッカーは監督が途中でクビになることが多く、その度に後任探しに急ぐわけで、その中で苦肉の策で浮上するのが、現役時代のいい思い出がある名選手というわけです。
 やばい時期に頼まれたチームを立て直すのと、シーズン初めから、チームを作っていくのは別の仕事です。やりたい戦術をやるのか、現実的にやれる弱者の戦術をやるのか、戦術上必要な選手がいるのか、結果がでないのも納得です。そうして結果が出ないまま監督界からフェードアウト、なんてのも珍しくないです。

 ・戦略がない
 これが最大の理由でしょうか。ピッチ上にいるのと、横から見るのはだいぶ違うのかもしれません。何がうまくいっていないのか、客観性や具体性を持って交代したり、配置を変えれるのかは、選手として持っていた資質と無関係なのでしょう。
 アレックス・ファーガソンというサッカー好きなら誰もが知るマンチェスターユナイテッドを長期に渡って指揮した名監督がいますが、彼の場合、圧倒的なモチベータータイプでした。でありながら、成功したのは、ヘッドコーチに戦術面を任せていた部分が多いからです、そしてその時代に合わせ、コーチの新陳代謝を繰り返していました。
 名選手の監督も優秀な右腕、ヘッドコーチに任せればいいのでしょうが、名選手が監督になった場合、何かと、かつてのチームメイトをコーチにしがちです。チームメイトには確かに信頼はあれど、異議申し立てしにく空気におそらくなりにくいにでしょう、そして同じように選手から指導者になってるわけですから、同じように経験不足なのかも知れません。
 しかしここで経験不足と書いたのですが、名選手から監督になった人が経験を積んで、名監督になった、という例は私が知る限り少ないです。これは何故なのか、知りませんが、たとえばクビになっても、選手時代のようにリバウンドメンタリティで、根性論を反省しないまま、また別のチームを指揮してしまうのかも知れません。
 
 

 
 



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