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宇多田ヒカル「One Last Kiss」を分析してみた

みなさん、今年(2021年)春から夏にかけて上映され、興行収入100億円を突破した映画、『シン・エヴァンゲリオン』はご覧になりましたか?

私が生まれたのが1995年、エヴァのテレビアニメ版放映も1995年。もちろん生まれたときからエヴァを見ていたわけではないですが、自分と同い年のアニメがついに完結を迎えるというのは感慨深いものがありますね。

映像、ストーリー、演出、すべて素晴らしい映画でしたが、宇多田ヒカルが歌う主題歌も素敵でしたね。エンディングで「One Last Kiss」に続けて「Beautiful World」が流れ、あ、「Beautiful World」ってあのキャラクターのための曲か!となった人も多いのではないでしょうか。

というわけで今回は、宇多田ヒカルの「One Last Kiss」を私なりに分析しつつ、映画の内容の話とも少し絡めてお話したいと思います。映画のネタバレは後半のみにして、曲の分析のところでは純粋に曲の話のみに止めていますので、映画はまだ見ていないけど宇多田ヒカルの曲は好き!って人もぜひこの記事を読んでみてください。

※ちなみに記事を書くにあたっての下調べとかはまったくしていませんので、もし宇多田ヒカルがインタビューで全然違うこと言ってる!みたいなことがあった場合でも、本記事は本記事としてアナザーストーリー的に楽しんでいただければと思います。

○「初めてのルーブルは/なんてことはなかったわ」

初めてのルーブルは
なんてことはなかったわ
私だけのモナリザ
もうとっくに出会ってたから

急にルーブル美術館が登場し、しかも「なんてことはなかったわ」とディスられるところから曲はスタートします。「なんてことはなかった/わ」「もうとっくに出会ってたか/ら」という変則的な歌詞の区切りと併せて、印象的な出だしですよね。

私の考えでは、この出だしでOne Last Kissの大事なテーマがすでに示されています。この曲は、記録と記憶をめぐる曲なんじゃないでしょうか。

どういうことか。モナリザのモデルには諸説ありますが、この曲では恋人の似姿がモナリザだということになっています。「私だけのモナリザ」が明らかに恋人である「あなた」を指していますから。

つまり、美しい恋人を写し取った絵なんかより、現実の「あなた」のほうが素敵よ、というのがこの出だしの歌詞になるわけです。

○写真よりも「心のプロジェクター」

さて、同じような発想が2番の初めにも見られます。

「写真は苦手なんだ」
でもそんなものはいらないわ
あなたが焼きついたまま
私の心のプロジェクター

次に出てくるのは写真です。「あなた」は写真を撮られるのが苦手なようですが、「私」は「そんなものはいらないわ」と言います。なぜなら、「私の心のプロフジェクター」には「あなた」が映し出されているからです。

ここでもまた、外部の媒体に写し取られた恋人=「あなた」より、私の中にいる「あなた」のほうがいいのだという想いが示されています。2番の歌詞では、カメラとプロジェクターという同じ映像メディアを登場させつつも、心の外/内という対比を作ることでそれが強調されています。

つまり、外側にある「記録」よりも「私」の内側にある「記憶」にある「あなた」のほうが素晴らしいのだと歌っているわけですね。

しかも、その「記憶」は身体的な接触と切り離して考えることはできないものです。なんてったって、「One Last Kiss」ですからね。

○触れ合うことと失うこと

Oh, can you give me one last kiss?
燃えるようなキスをしよう
忘れたくても
忘れられないほど

「燃えるようなキスをしよう」という歌詞はなんとも官能的です。「忘れたくても/忘れられないほど」、「私の心のプロフジェクター」に「あなた」が残り続けるのも、この官能的なキスと切り離して考えることはできません。

この身体のふれあいというのは、「記録」との対比にもなっています。絵画や写真とは触れ合えませんからね。

しかし同時に、触れ合うこと失うことの始まりでもあります。

初めてあなたを見た
あの日動き出した歯車
止められない喪失の予感
寂しくないふりしてた
まあ、そんなのお互い様か
誰かを求めることは
即ち傷つくことだった

「私」は「初めてあなたを見た」、その時から「喪失の予感」を抱いていたと言います。

写真や絵画は永く残り続けます。私たちがモナリザを観ることができるのも、まさにこの永続性のためです。それに比べて人間の身体は儚い。2人の時間をどれほど引き延ばそうと努力しても、それは1世紀にも満たない時間に過ぎません。

人は相手を求めることで、喪失の可能性の中に飛び込み、傷つきます。映画の内容の話は後にまわしますが、映画を見た方は碇ゲンドウの独白を思い出していただければこのことがよく分かるはずです。

触れ合うことは失うことでもある。だからこの曲は、「One Last Kiss」=「最後にもう一度だけキスをしましょう」というタイトルになっているのでしょう。「キス」と「最後」はセットなのです。

○忘れないこと、思い出すこと

しかし、「あなた」がたとえ「私」の前からいなくなっても、それで全てが消え去ってしまうわけではありません。「私の心のプロジェクター」には「あなたが焼きついたまま」です。

もう分かっているよ
この世の終わりでも
年をとっても
忘れられない人

「忘れられない人」という執拗なリフレイン。これは単に「忘れられない」ということを強調しているだけではなく、「あなた」を思い出すという行為の一部でもあります。「忘れられない人」について語るとき、その人を思い出さないわけにはいかないからです。

こうして「あなた」は、外部のメディアによる「記録」ではなく、「私」との身体接触を通した「記憶」の中で存在し続けるのです。

そう考えていくと、歌詞の最後は示唆的です。

吹いていった風のあとを
追いかけた 眩しい午後

「風薫る」なんて言うこともありますが、私たちが風を感じるのは多くの場合触覚、つまり身体感覚においてです。ここでも身体性が登場するわけですね。

この「吹いていった風」はおそらく「あなた」のことを示していますが、それは「風」ですので、捕まえることはできません。このことはまさに、写真や絵画といった物理的な「記録」ではなく、身体接触の「記憶」として残っている「あなた」のあり方と重なります。

こうして、淡い喪失感を残してこの曲は終わるのです。

○「Beautiful World」とのつながり

映画のエンディングでは、「One Last Kiss」に続けて「Beautiful World」が流れました。「One Last Kiss」の分析を踏まえると、両曲にはなかなか浅からぬつながりがあることがわかります。

まず、「Beautiful World」もメディアを否定する姿勢を見せています。

寝ても覚めても少年マンガ
夢見てばっか 自分が好きじゃないの
新聞なんかいらない
肝心なことが載ってない
最近調子どうだい?
元気にしてるなら
別にいいけど

「少年マンガ」や「新聞」が斥けられます。また、「最近調子どうだい?」は口調からして電話でしょうが、この会話も「別にいいけど」という煮え切らない形で終わってしまっています。

それらに対して、より望ましいものとして登場するのが身体的接触=そばにいることです。

もしも願い一つだけ叶うなら
君の側で眠らせて どんな場所でもいいよ

このように実は近いところにある「One Last Kiss」と「Beautiful World」ですが、大きな違いが一つあります。「One Last Kiss」が「あなた」と最後のキスをする曲だとしたら、「Beautiful World」は「君」を失ったあとの歌だということです。

言いたいことなんか無い
ただもう一度会いたい

「One Last Kiss」から「Beautiful World」へ。『シン・エヴァンゲリオン』ではエンディングでこれらの曲が続けて流れるわけですが、2つの曲にははっきりとした歌詞の流れがあるわけです。

○『シン・エヴァンゲリオン』の主題歌として(ネタバレ有り)

ここからは映画のネタバレを含むので、ネタバレを望まない人は(「いいね」を押して)ブラウザバックしてください。

まず、先ほど少し触れたように「One Last Kiss」→「Beautiful World」の流れが碇ゲンドウの人生と重なることは明らかです。

失うものが何もなかったころのゲンドウは、それゆえ喪失も経験しないで済んでいました。しかしユイと出会うことで、彼の人生に「喪失」の影が忍び寄ってきます。

初めてあなたを見た
あの日動き出した歯車
止められない喪失の予感

ゲンドウにはユイの喪失を受け入れきれない。そこで試みられるのが「ネオジェネシス」であり、ゲンドウはそれを通してユイの蘇生を目論んでいるわけです。

対してシンジは、喪失を受け入れる選択をします。彼は痛みを受け入れることで「大人」になり、ゲンドウを乗り越えます。

誰かを求めることは
即ち傷つくことだった

劇中でミサトさんが、「子供が父親にしてやれることは、肩を叩くか、殺してあげることだけよ」と言う通り、映画『シン・エヴァンゲリオン』は父親の乗り越え=父殺しを主題としています。

「One Last Kiss」との関連で重要なのは、それが「あなた」の喪失を受け入れることで達成されることですね。Last=最後を受け入れられないゲンドウに対して、シンジは「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」と「終わり」を告げるのです。

もう一つ大事なことは、シンジの成長が身体的なレベルでも表現されていた点です。劇中でアスカが言うように、エヴァの乗り手=チルドレンには成長がありません。しかしエヴァに別れを告げたあと、物語の最後には、スーツを着用し、体つきがよりがっしりとしたシンジが登場しています。

こうして、エヴァンゲリオンの乗り手であった「チルドレン」は、最後の別れ=「One Last Kiss」を通して「大人」になりました。劇中でカヲルくんの名字である「渚」の意味が説かれていましたが、シンジは「碇」を引き上げて「渚」を去っていくのです。

○おわりに(ネタバレ有り)

映画の内容に関しては語りたいことがたくさんあって、まだまだいろいろな要素を取り出すことができるのですが、この記事はあくまで「One Last Kiss」のためのものなので、このあたりでいったん締めておきましょう。

ただせっかくなので、最後に2つだけ指摘しておきます。まず、『シン・エヴァンゲリオン』の内容は明らかに旧劇場版に対する自己批判となっています。最後まで痛みを受け入れることのできない旧劇場版のシンジは、今作のゲンドウの姿と重なります。要するに、旧劇場版と新劇場版では、「成熟」に対する向き合い方が全く違うのです。新劇場版のほうが、よくも悪くも「まっとう」な成長譚になっています。

もう一つ。エヴァに別れを告げなければならないのは、シンジくんばかりではないということです。私たち観客も、エヴァンゲリオンという四半世紀続いてきたアニメにさよならして、前を向かなくてはなりません。映画のポスターにも印字されているシンジくんの「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」というセリフは、『ヱヴァンゲリヲン』というシリーズとの告別でもあるのです。

これからのエヴァンゲリオンは、映画という「記録」の中ではなく、私たちの「記憶」の中に居場所を移すことになります。そういう意味で、映画を見てきた私たちは、もう最後のキスを済ませたのだと言えるでしょう。

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