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歩くこと主義

旅行の醍醐味といえば、歩くことだ。自分はできるだけ多く歩くことでその街のことを理解できるようになると妄信しているから、目的地までの距離が一駅か二駅くらいであれば歩くことにしている。もちろん移動ではなく歩くこと自体が目的のときは、もっと歩く。

実際、歩くことで見えてくるものは多い。たとえば、東京はそのごたごたしたイメージに反して歩行者には優しい街だ。道幅が広く、ルートも整備されている。人が多すぎるのが瑕だけど。

逆に京都は……だめだ。碁版上の街は地理を把握するのにはいいけれども、それが歩道を広げてくれるわけではない。狭い道が多く、車とすれ違うたびに少し身構える必要があってしんどい。

あるいは、神戸は山が常に北側にあるおかげで道に迷うことがない。ここは「山の手」が文字通り実現されている街で、山側に行けば行くほど住宅の構えは豪勢になっていく。神戸には阪神・JR・阪急の3つの鉄道が横に走っていて、一番北に阪急があり一番南に阪神がある。北は高級住宅街で南は埋め立て地や工場地帯だ。要するに路線によって街がわかりやすく区切られている。こんなに露骨な都市はなかなかないと思う。

金沢を歩いたときはびっくりした。天気がころころ変わるのだ。雪が降ってきたので傘をさしたら5分くらいで止んだので傘をしまったらまたすぐに雪が降ってきたので……という具合だった。偶然かと思ったが、この前に行ったときもそんな具合だったので、おそらくそういう土地なのである。暮らしている人は大変だ。

イタリアを歩くのは楽しかった。ベタだけど、特にヴェネチアはいい。水路が目新しいし、家の作りも面白い(そしてひとつひとつの家に番号が振ってある)。細い路地がたくさんあって、子どもたちがそこでサッカーしていた。「やーい、チャイニーズ!」みたいな煽りも受けたが、気分がよかったので許してやった(彼らからすると、アジア人はやっぱり馬鹿にしていい対象らしいし、見分けもついていない)。

自分がこのようにいちいち街をあるくのは、趣味というのももちろん大きいけれども、車に対するアンチテーゼという側面もある。街を歩いているとよく分かるが、現代の都市が完全に車によって支配されている。道は歩道と車道に分割され、車道のほうが圧倒的に広い。もともと歩行者の通っていた場所が道になったはずなのに、いまや人間は道から疎外されているのだ。

これは道という空間の変質にもつながっているのではないかと思う。車に乗っている限り、道は移動経路でしかなく、極端に言えばそれはひとつの「線」だ。車が道の上でできることと言えば進むか停まるか、わずかにその二択だ。ところが実際には道は「面」で、さまざまな近い道の可能性を含んでいる。道は遊び場になるし、誰かとおしゃべりするのもいいし、屋台だって道端に建つのだ。

『ドラえもん』を読んだことがあるだろうか。道のことを考える上で、この国民的漫画の記念すべき1巻はなかなか示唆的でおもしろい。1話でのび太はジャイ子たちと羽つきで遊び、完敗する。しかし勝敗はここではどうでもいい。彼らが羽つきをするのは、のび太家の前の道なのだ。ここに描かれているのは、子どもたちが遊び場として使える娯楽の場所としての道路である。

一方2話では、のび太がしずかちゃんの家に遊びに行くのだが、道中で車にはねられるという未来が見えているため、必死で車を回避しながら目的地へと向かう。ここで道路はいつ車と衝突するかわからない危険な場所として表現されている。

つまり『ドラえもん』の1巻には、人々が自由に使える公共空間としての面的な道と、車の通り道として整備され歩行者が疎外された線的な道との両方が描かれている。この巻が刊行されたのは1974年だが、このあと面的な道が縮小の一途を辿ったことは言うまでもない。悲しいことだけれども。

現代の都市空間についてよく指摘されるのがその均質化、いわゆる「非-場所」化だ。ただしそれは、線的に街を移動しているときにこそ本当に実感されるものだと思う。面としての街を経験していれば、それぞれの都市が全く似ても似つかないものであることは一足瞭然だからだ。

セルトーが言うように、僕たちは歩くことによって都市を実践している。そうした実践の中では、都市は「非-場所」逆に言えば実践を怠っているからこそ空間が均質なものとして現れる。こう言い換えてもいい。僕たちは均質な都市を移動しているのではなくて、車による移動という線的な道の使用が都市を均質化している。

歩くこと主義は言うまでもなくエコでもある。もちろん車があったほうが便利な街、車が必要な人がいることは否定できない事実だ。でも、大阪や東京のような、交通網が発達した都市部で車はそんなに必要だろうか。少なくとも自分は、関西に住んでいて車がなくて困った経験はない。

ついでに歩くこと主義はもうひとつの意味でもエコである。エコロジーのエコだけでなく、エコノミックのエコでもあるのだ。ガソリン代や車検代は高いし、駐車場代だってかかる。車は買って終わりじゃない。極端な話、たまに車に乗るだけの人ならタクシーを使い続けたほうが安上がりかもしれない。

車があることの便益はたしかに計り知れない。自分もよくAmazonで買い物をする。今日注文したものが明日届く。それにはきっと、車が大きな役割を果たしているのだろう。

でも、世の中がそんなに便利である必要があるのか、という気もしてしまうのだ。不便であってもかまわないのではないか。多少荷物が届くのが遅くなっても、その分早く注文するように心がければいいだけである。車がもたらす便利さは、そんなに必須のものだろうか。公共交通機関があまりない地方もあるけれども、車のせいでそれらが無くなってしまったという見方もできるのだ。

歩くこと。その重要性を認識することが、これからの時代に必要なことであると思う。自分は別に健康のためや地球のために歩くのではない。歩きたいから歩くのだが、それは大きな問題にもつながっている。

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