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被爆三世として生きる~被爆75年目の夏(その3)

私の家族のことをお話します。

祖母の被爆体験や、伯父が亡くなった場所については父がブログにしています。父は胎内被爆しています。

〈私は被爆三世なんだ...〉

つい最近まで私は漠然とした感じで生きてきました。父方の祖母は私が幼稚園の頃に他界したので何も話を聞けていません。

私が生まれたときに産婦人科の廊下で「キャーキャー」騒ぎすぎて看護士さんを驚かせたり。私が欲しがったウルトラマン人形を買ってくれた婆ちゃん、マスカットがのった誕生日ケーキを買ってきてくれた婆ちゃん。幼稚園の運動会、園児の入場口から孫の私と一緒にでてきたという伝説も。ほんとに微かな記憶しかありません。でも愛してくれてたんだなってのは古いアルバムをめくれば伝わってきます。

ある日、脳いっ血で突然倒れました。近所の病院に入院中、意識朦朧とする中でも、近所の子供の声がすれば、私が泣いているんじゃないかと何度も私の名前を呼んでくれていたそうです。両親が病室にはいれてくれなかったので、病室に酸素ボンベが搬入される様子を廊下から覗いていました。当時の私には人が死ぬという意味が理解できなかったのです。お葬式の記憶があまりありません。桜の季節とだけ。

私は学校の平和学習で学びながら、ふつうのヒロシマの子供として育ちました。

2020年、父方、母方両方の祖父母と呼べる人が他界して居なくなってしまったタイミング。いよいよ戦争を語れる人が身内に居なくなった。

普段あまり会話をしない、父が私に初めて自分の被爆手帳を見せてくれました。そこには〈爆心地1.3キロ〉と書かれており、衝撃を受けました。

祖母が大きなお腹で家屋下敷きになり途中までは、隣の住人が引っ張りだしてくれたけど、火の手がせまっているということで「申し訳ない」と、逃げて行かれました。胸までつかえているところから自力で這い出した祖母は自身の実家を目指して逃げたと。朝、学校に送り出した長男のことも探したやもしれません。

そこまでは知っていました。 

それが〈爆心地1.3キロ〉のこととは。

すでに書かせて頂いたように爆心地から2~3キロの地域は全壊全焼です。

祖母が逃げたと思われる道が当時どうなっていたかは、NHK広島の企画〈ひろしまタイムライン〉からなんとなく察しがつきました。地元の人間がみれば馴染みのある地名ばかりです。

壮絶としか。普通の身体でも逃げるのは困難な中で、お腹の子供をかばいながら。

原爆投下 8月6日


祖母は長男と妹を亡くしました。
曾祖父も爆心地近くで大火傷。
祖父は朝鮮半島に出兵中で不在。

終戦の日 8月15日

祖母は父を産みました。
お寺のあたりにいた産婆さんを、
曾祖父が早朝呼びにいったと。

祖母が父を産んだ家の柱には爆風により突き刺さったガラスが、区画整理のために取り壊される昭和50年代までそのままだったとのこと。

おかげさまで父はごく最近まで点滴1つしたことがないくらいに元気でした。しかし、最近病院通いが多く、なんだかめっきり老いたような。やっと原爆手帳を使い始めたと。現役で働いている間は1度も手帳のお世話になっていません。

遺言でも遺すかのように父が語り始めました。

1人で自分が会うことの叶わなかった兄の足跡を図書館等に通って調べていたこと。父が産まれることを楽しみにする父の兄が「おとうちゃま」と出兵中の祖父へ宛てて書いた手紙と、写真1枚が奇跡的に残っていた。はじめて、父と二人で号泣しました。

ここで厄介なのが両親のバランス。

母「親戚の○○子おばさんはね、水商売しよったんじゃないかね?なんかおかしい人だったよ。結婚もせんと1人で墓に入っとる。」

葬式や法事で幼い頃会ったことのあるおばさんです。確かに煙草を嗜むハスキーな声の粋なおばさんでした。

すると翌日父がそのおばさんのことを偶然話始めました。オバマ大統領とも抱き合った被団協の名物おじいちゃんを最近テレビで見かけなくなって寂しいと、私が言ったのがきっかけ。

父「○○子おばさんも、手にえーたい(たくさん)ケロイドがあったけんね。昔はそういう人がたくさんおったけど、今はもう亡くなったか、寝こんどってだから、見かけんようになったね。」

その会話で、おばさんが原爆投下時にどこにいたかはわかりません。しかし、熱線による火傷はケロイドとなり、差別の対象になってお嫁にいきたくても、いけなかったのかもしれません。あの時代を女1人で生き抜くためには、どんな仕事でもやると思います。

最近で言えば、東京都知事のいう〈夜の街〉で働いてもいいではないか。それで誰に迷惑をかけた?誰を傷つけた?みんな生きることに懸命な時代。

その日は母に腹がたって仕方ありませんでした。私はしばらく、その母の悪いクセに気づくことができずに、父との仲を引き裂かれていたに等しい時期がありました。口を開けば怒鳴る父と平行線のままでした。父の寂しさに気づいてやることができませんでした。

今年8月最初の日曜日に、罪滅ぼしに父方の墓に行って1人で大掃除をしました。長らく放置していたせいでこびりついた汚れをスポンジでこすり続けました。私に命を繋いでくれた婆ちゃんに語りかけるように。

お世話になってる寺にも没日8月6日と刻んである墓石がたくさんあります。それぞれの家に、それぞれの物語があるのだと思います。

終戦の日、父は今年75歳になります。

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