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「オッペンハイマー」感想文

先日、今年のアカデミー賞最多部門受賞作「オッペンハイマー」を観てきた。日本版ポスターには「この男が、世界を変えてしまった」というコピーがあるが、映画を観れば、この言葉に違和感を覚えるのは私だけではないはず。"原爆の父"というレッテルは彼1人が背負うものではない、というのが率直な感想。


予習として、藤永茂著「ロバート・オッペンハイマー -愚者としての科学者-」を読了。タイトルで「愚者」とつけてはいるものの非常に中立的で、史実に基づいた客観的な文章だった。オッペンハイマーを取り巻く様々な人物との関係や時代背景、脚色されて世に知られている有名な言葉の真意、基礎的な物理学まで非常に丁寧に網羅されていてとても勉強になった。映画の復習としてもう一度読みたい。

広島に落とされた原爆に「リトルボーイ」、長崎に落とされたのは「ファットマン」という名前がついていたのは知っていたけど、それ以前に研究段階で「シン(Thin)マン」という型があったというのは個人的に印象深かった。

私たちは、オッペンハイマーに、私たちが犯した、そして犯しつづけている犯罪をそっくり押し付けることで、アリバイを、無罪証明を手に入れようとするのである。(中略)原爆を生んだ母体は私たちである。人間である。

「ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者」より

(ここから映画の内容に言及します)

日本へ原爆を落とすかどうかの会議のシーンで、推定死者数を尋ねられたオッペンハイマーは「数万程度でしょう」と答える(この辺の正確なセリフは記憶が曖昧、具体的な数字を言ったかもしれない)。このあっけなさは、大規模災害や戦争のニュースで被害者数が報じられるたびに思う「被害者を数字で伝えることの無慈悲さ」を感じてすごく胸が痛かった。
”数万人”。このたった3文字にまとめられた中に想像しきれないほど沢山の人生と時間が存在することを彼は軽んじすぎていたのだし、それほどまで「人が死ぬ」数の感覚が麻痺してしまうのが戦争だったのだと思う。

原爆の殺傷力はTNTトンに換算した破壊力だけで表現できるものではない。爆風に先がけて高熱波、ガンマー線、中性子が人間をおそい、また死の灰の形をとって死の輪をさらに拡大する。広島・長崎からの50年間に原爆の死を生き、そして死んだ10万人の被爆者が、その死にいたる日々に直面したものの総体が、TNTトンからはスッポリと欠け落ちているのである。

「ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者」より

「原爆の恐ろしさが十分に描かれていない」「広島長崎の苦しみを伝えようとしていない」と批判する意見が日本からたくさん出ている。原爆が落とされた後の広島の様子をマンハッタン計画メンバーが写真で報告を受けるシーンでも、苦しそうに目を背けるオッペンハイマーだけが映された。しかし仮に、劇中に落下後の凄惨な様子や人々の苦しみを描いたとして、私はむしろ「映画のワンシーンとして、演出の一部として数秒数十秒観て簡単に理解した気になるな」と感じると思う。それにそのシーンを作るのもアメリカ人であるわけで。

オッペンハイマーが直視できなかったそれらの被害の様子について「では実際はどうだったのか」と興味を持って調べたり、広島長崎の原爆資料館に足を運んだり、そういう人が増えればいいと思う。

劇中のオッペンハイマーが例えば嬉々として原爆の製造に取り組み、終戦後にこの結果を誇るような人間であれば、おそらく私も冷静に鑑賞することはできなかった。ただ彼は最初から最後まで物理学者として、「核分裂」の世界を知りたかったのではないかと思う。それを具現化できてしまったのが原爆で、人間相手に使うことがどれだけのことかということが想像できなかった「一人の弱い人間」だったのだ、と解釈した。

開拓中のロスアラモスで、軍服を着て指揮をとるオッペンハイマーにラビが「それを脱げ、お前は物理学者だ」と諭すシーンがある。このシーンを見ればラビはマンハッタン計画に賛成でないのは明らかで、「原爆が製造された」という結果は変えられなかったとはいえこういう人間もいたということを知るのは大きい意義があると思う。

オッペンハイマーがラビを強く求めたのは、その親しい交友関係を含めて、当然のことだった。しかし、ラビはレーダーから原爆に乗り換えることを断った。原爆が、軍事目標に限られず、一般市民を巻き込む無差別の戦略攻撃兵器であることが、その第一の理由だった。ラビは、日中戦争での日本海軍の上海無差別爆撃の惨害を示す写真を見て以来、戦略爆撃に対して強い嫌悪感を抱くようになったという。しかし、友人として、ラビは新米所長オッペンハイマーの混迷ぶりを見るに忍びず、顧問の役を買ってでた。

「ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者」より

人類の負の遺産アウシュヴィッツ収容所でも「慈悲のある監視者」がいたという。加害者側に同情できるような事では決してないけど、一個人の感情では逆らうことのできない大きな大きなものが、当時そこにあったのだと事実として受け止めることができる。


クリストファー・ノーラン監督作品で私が最も印象深いのは『TENET』で、「順行」「逆行」という時間軸を赤と青の対称的な色分けで表現した作品だった。今回はオッペンハイマーの視点をカラー、水爆問題で対立するストローズの視点をモノクロで表現。

ブラックホールの存在を理論で提唱したとき「いつか天文学者が完成させるよ」と話したりと、謙虚で誇示欲というものを終始あまり感じさせなかったオッペンハイマー。一方で、ストローズの承認欲求・自分より目立つ存在への妬みはまあ見苦しいもので、色彩の有無と併せて一つの対比のようだと思った。

量子力学を生んだ共同体の伝統をそのまま身に帯びた物理学者を数人も含む、国籍・年齢を異にする多数の科学者たちの、無私にも近い共同作業によって生み出されたものが、最も呪うべき前代未聞の大量殺人兵器であったという事実を、私たちはどう受け止めればよいのだろうか。

ロバート・オッペンハイマーの似姿を広場にかつぎ出し、それに火を放ち、物理学者の物理学者の悪魔性の象徴として焼き落としてしまうのも一法だろう。それによって、私たち自身のアリバイを、無罪性を手に入れることができる。彼らは悪魔であり、我らは悪魔ではない。しかし、果たして、これで事が済むだろうか。

「ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者」より

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