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歴史考察 #158『大正時代の大阪は煉瓦建築だらけだった?!』

大阪・京橋駅から徒歩2分。すると、美しい煉瓦造りの建造物が突如として現れます。そこは、リバーカントリーガーデン京橋。

複数のアーチ型、ライオンの顔を模した水場など、とても年代を感じる煉瓦建築物ですが、建築は1999年と比較的新しい建物とのこと。

2022年からたくさんの煉瓦建築物を見てきた私としましては、こちらの建築物はもっと年代を感じたんですよね...

すると、こちらの建築に使われた煉瓦は、100年前のイギリスの煉瓦であると書かれていました。

また、その煉瓦建築の向かい側には、古びた煉瓦塀が落書きされたまま放置されていたんですよね。

そんなことから、このあたりには昔、煉瓦建築物が林立していたのではないかと感じていました。

あれから一年、そのモヤモヤが晴れるかのような古地図に遭遇しました!!それは大正時代に制作された「大阪市パノラマ地図」というものです。

こちらの古地図には、建物のイラストまでが詳細に描かれているのですが、とにかく煉瓦建築物や洋館が多かったのです!!

たとえば、大阪城の周りは赤煉瓦の建築物だらけです!!

これらは日本陸軍の建築物とありますが、歴史を辿れば、こちらにはかつて浄土真宗の町があり、石山本願寺の建物だったことがわかります。(ということはお寺が煉瓦建築物ということに...)

また、千日前にはドーム型の洋館が描かれ「楽天地」とありました。

こちらの写真がないか探してみたところ、絵葉書でありました!!

「楽天地」は、1914年(大正3年)に建設の芝居・演劇・映画・水族館・ローラスケート場・展望台などの娯楽を詰め込んだレジャーセンターだったようです。

そんな「楽天地」は、琵琶少女歌劇という劇団も擁し、ここから名女優、田中絹代が誕生、その後「楽天地」は1930年(昭和5年)に閉鎖され、跡地に建てられたのは大阪歌舞伎座とありました。

また、霞町にもドーム型の洋館が描かれ「国技館」とありますが、こちらは相撲興行施設だったようで、1918年(大正7年)2月に着工、1919年(大正8年)9月竣工、同年9月12日に開館とあり、大阪相撲の発信拠点として機能したが、既に大阪相撲の衰退期を迎えており、次第に大きすぎるキャパシティを持て余すようになり、1925年(大正14年)に相撲興行を中断。

大阪国技館は売却され、1928年(昭和3年)には映画館の松映として再出発をはかり、以降、松竹キネマの映画と大阪松竹少女歌劇のレビューを主として興行。

建物は1945年(昭和20年)の大阪大空襲で焼失し、現在は跡地に石碑が残るのみとありました。

ちなみに、この地図は「大阪くらしの今昔館」の床に展示されているようです。

いずれにしましても、大正時代の大阪には、数えきれないほどの洋館や煉瓦建築物があったんですね!!

この地図を携え、それらの場所をひとつひとつ検証するのも楽しそうですね✨

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