ツインレイ?の記録19
4月17日
愛媛で地震が起こり、愛媛に実家がある彼はひどく心配していた。
そのことで、私も愛媛にいる知り合いのことが心配になった。
それは元夫の伯父さんなのだが、私は個人的にこの伯父さんにとても気に入られていて、よく連絡も取っていたのだが、離婚を機に連絡をしなくなった。
でもどうしても心配になり、四年ぶりに連絡してみると、向こうもすごく喜んでくれて、また縁がつながった。
この時私はまた一つの思い込みを壊した。
離婚したからといって、せっかく繋がった縁を断ち切る必要はないということ。
実は私は元お姑さんの様子も気になっていた。
こんな関係で出会わなければ絶対仲良くなれたのにと思うぐらい、妙に好きな人だった。
たった一度二人で遊んだ日の楽しさは今でも忘れていない。
現世的な結婚、婚姻関係なんて本当に三次元的なことだと思う。
だけど自分もまたそれに縛られていたのだと改めて気づかされ、そして復活した縁で、思い込みをまた一つ壊すことができたのだ。
きっかけはやはり彼だった。
彼はいつも私の固定観念を壊し、私を自由にしてくれる。
4月22日
それは私が行きたい別の国の大学の面接結果がわかる日だった。
私の面接準備を手伝ってくれた彼もこの結果について気にしていた。
その国は私にとって夢の国。
特に幼児教育には非常に感銘を受けた。
もともといつもの直感で何となく応募してみただけだけど、彼との面接準備を通して色々と調べた結果、なぜこの国に惹かれたかよくわかった。
つまり、私にとってその国は彼なのだ。
最初は理由がわからなかった。
でも彼が会いに来る前から、連絡をくれたその時から、私は彼に会いたくて、なぜか彼に惹かれて、そして知れば知るほど惹かれる理由が明確になったのだ。
だから私は彼にも伝えていた。
「私はこの国が存在するのがわかっただけでもうれしい。なんで惹かれたかわからないけど、知れば知るほど惹かれた理由がわかりました。つまり、この国はあなたなんです!」
私がこう言った時、彼はいつもの困った顔で「意味わかんないです」と言った。
私は一回目の面接で失敗したものの、彼が手伝ってくれたおかげで、二回目の面接はやるだけのことはやれた。
そして好感触だと思った。
そして一回目の面接でははっきり言えなかったことをはっきり言った。
「ほかの国じゃダメなんです。私はこの国に行きたいんです!」と。
なにせこの国=彼なのだ。ほかの人ではダメなのだ。
「あなたのこの国への愛はよくわかりました」
そう言われて二回目の面接は終わった。
私は手ごたえがあったと思った。
だから正直合格する気満々でいた。
私はこの夜彼に会ってほしいと頼んでいた。
合否を一番に報告したいからと。
でも生憎この日彼は都合が悪かった。
「今日は予定を空けておくように言われているのですみません。今日が合否発表の日ですよね。とても緊張されているお気持ちお察しします。
面接は十分努力されたと思うので自信を持ちましょう。結果は大丈夫ですよ。信じております」
そうやって、励ましてくれたけど、結果は不合格だった。
私は彼に連絡した。
「面接ダメでした。当然ですよね。だってこの国はあなたなんですから。いくらがんばっても無理なものは無理だし、私は選ばれない。結果にはこだわらないなんて嘘です。正直こんなにショックだと思わなかった。悔しくて今も涙が止められない」
これに対して彼の返事は
「色々と余計なことを助言し、面接結果に影響したかと思うと責任を感じます。お力になれず申し訳ございません」
というものだった。
これに対して私はこのように返事している。
「私はあなたに反省してもらったり謝ってほしいわけじゃないです。そんなふうに言われるのは嫌です。私は面接のことでは感謝しかありません」
それに対して彼も返事。
「記載した気持ちは私なりの配慮でしたが、嫌な思いをさせてしまったのでしたら申し訳ございません。文章が直接的な表現ではないため、色々な解釈を想像させ、結果的にネガティブな解釈として受け取らせてしまったのですね。自分の伝え方が間違ってました。今後お伝えする表現は誤解ないよう気を付けます。また感謝してくださっている気持ちは大変うれしく思います。
それ故に今回の結果が残念だったので、私も同様に残念な気持ちになったことをお伝えしようとまわりくどい表現になりました。
教育に熱心な心をお持ちでしたので、ぜひ受かってほしかった、また協力したかったというのが本音です。応援していたからこそ結果を聞いたときは残念でした」
私も彼の応援に応えたかった。
せっかく彼が私に翼を与えてくれたのに、私は自分の力でうまく飛ぶことができなかった。
この憧れの国の大学面接はJICAの派遣であり、私に向いていると教えてくれた友人もそもそもJICAは行政機関だから私には向いていないだろうと言っていた。
外務省で働いていた友人も、あれはそもそも大卒の若い子と取りたがるし、それこそ役所勤めや省庁で半年でもバイトした経験があればポイントが上がる、或いはすでに内定している場合も考えられると言った。
私の場合、一次面接は日本語学校関連の人っぽかったが、日本語学校関係者のコネで決まる場合もあるかもしれないと聞いた。
いずれにしてもだ。
私は選ばれなかった。
確かに私は一般的なルートで海外の日本語教師になったわけではないが、資格も経験もあるし、何より海外での教育に慣れている。
そして漫画好きでオタク気質の私は、この大学の学生が求めている日本のポップカルチャーを通じた日本語教育もできたし、これまで誰も解決できなんかったという現地の日本語教師不足問題さえ解決できると思っていた。
まあそのプランと計画に関しては、彼に「今回の要請事項からははずれている」と言われてしまい、面接では具体的に言わなかったものの、自分ならできるという確信さえあった。
でも選ばれなかった。
私は選ばれない。
この国=彼でもあった私にとって、やはり私は選ばれない、選ばれる価値もないと思い、それも彼に伝えたが、彼は何も返答しない。
まあでも、私と同じように悔しく残念に思ってくれただけでもありがたい。
それだけに喜ばせてあげられなくて、情けない。
「あなたは私に自由の翼をくれました。私はまだ遠くに行ける!」
そう伝えたかった。
でも私が実際に言ったのは、
「年齢でもうダメだと言うなら、私はもうどこにも飛び立てない。足の怪我もなかなか治らないし、走れないし、もうつらい」
こんな弱音だ。
彼は私のことを35歳以下と思っているが、私は42歳の彼よりも年上、もう40代後半だ。
ジェットコースターみたいな人生も60までだと高校時代からの親友にも言われ、織田信長の時代なら人生50年、もう死ぬ年齢。
残りの人生どうやって完成させるかを考えてはいるものの、次のステップアップがコスタリカと思っていたのに、そもそももう飛び立てない、そんな年齢なのかと思うと絶望しかない。
そんな時に出会った彼は、私とは正反対で真逆の生き方、地に足をしっかりつけて生きている。
私は彼が羨ましくて、嫉妬すら感じていた。
だから、「家族家族」という彼のことも嫌いだった。
「何が家族じゃ、サザエさんなんてBLと同じぐらいファンタジーだ」
とすら思っていた。
でも彼はそのファンタジーさえリアルに実現する人だった。
そのための犠牲や努力も惜しまない。
そして私には手に入らないすべてのものを手に入れた。
社会的地位と信用、家庭、子ども、安定した生活。
なんでこんなに真逆の人にここまで惹かれるのかと思う。
それでもベースがどこかで同じ。
こんなにも違うのに、私にとって彼はもはや自分の一部となっている。
この感覚は私だけのものだろうか。
そして翌日、私は彼とほぼ一ケ月ぶりに再会する。
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