涙の乗車券を握り締めて
松田聖子を聴き始めたのは、確か高校生の頃だった。
他人よりも遅いであろう彼女との出会いの理由は「母親が聖子ちゃんを好きじゃなかったから」ただそれだけ。
家にある膨大な80年代アイドルグッズの中に、松田聖子はいなかった。
斉藤由貴も薬師丸ひろ子もWinkも工藤静香も、ついには、おニャン子クラブのポスターすらあったのに。
一度好きになったアーティストは大体3年周期で再度はまり出すという習性を持つ私は、ふと思い出したように彼等を聴き出す時がある。
そして2019年の夏、やはり狂ったように松田聖子を聴いていた。
高校在学時の生活態度を考えると予想外とは言い難かった予備校生活に、本当に嫌気が差していた時期だった。人生最大の因果応報だ。
太平洋側の夏の日差しが、何だか白々しく濁ったようにすら思えた。
住み慣れた日本海側の方が多湿だというのに。
そうして怠惰を絵に描いたような暑さ故に食が喉を通らなくなり、拒食症になってしまった。
「これだけ食べずにいられたのだから、夜抜いた方がいい。もったいない。」などと思っているうちに、胃に食料を入れるという生存行動が怖くなってしまったのだ。
睡眠を削り、セックスもせず、ご飯も食べないという3大欲求に背き続けた生活を続けたら、精神が蝕まれていくのは明らかだった。
とうとう家にも帰れなくなって、知り合いの家や友人の部屋を転々としていた。
留守電がいくつも溜まっていくのが耐えられないというだけで、駅前のペデストリアンデッキから飛び降りようとした日もあった。
大学に行きたいという蜘蛛の糸のような希望だけが活力だった。
授業は一回も休んでいなかった。
最早それだけが自慢だったかもしれない。
明くる日も明くる日も虚にコンビニ前でサラダチキンを食んでいた。
8月の暮れ、そろそろ食べきって授業に戻らなくてはと思ったその矢先、目の前を通り過ぎたカップルの女側から笑われた。
「あんな食べ方下品」
知ってる。
知ってる。知っているけど、耐えきれなくて残りをゴミ箱に捨てて、駆け足で教室に戻った。
泣きそうになりながら駅に向かっていた。徒歩2分の仙台駅が妙に遠かった。
あんな知らない人のあまりにも正しい一言で、無惨にもしっかりとやられていた。
無職の穀潰しでしかない自分では言い返せなかった。
暫くすると厭にむしゃくしゃして、久しく食べていなかったロッテリアのハンバーガーをセットで買った。
「吐きたい、吐き気しかしない、そういえばサルトルみたいな斜視だなあのおじさん……」とエンドルフィンを垂れ流しながら駅のベンチに座って人の往来を眺めた。
仙台駅構内の真ん中には、一本の通路が長く通っていた。多分松島か何かの海辺の広告写真がふと目に止まった。
海が見たい。
唐突に頭の中で閃いた。海が見たい。
見なくちゃいけない気がする。
こういう時に先人たちは海を見てきたんじゃないか。
今見なかったら一生見ないかもしれない。
死にかけの老人が花見に向かうときもこんな気持ちじゃないかと考えた。
ここからアクセスできるのは、松島か庄内浜。
そして松島はフェリーがないと楽しめない。
そうなると必然的に庄内浜を選ばざるを得なかった。
調べるとちょうど19時に出るバスがあった。
仙山線のホームで30分に1本の電車を待って、駅前のターミナルに向かった。
多分乗客は私含めて10人もいなかった。
揃って年寄りで、外れ値である自分が久しぶりに尊かった。
同時に、なぜこれほど疲れる旅を始めてしまったのかと気分が重くなっていった。
「Ticket To Rideよ、涙の乗車券よ、これは」とiPhoneの高速バス予約画面をちらちらと眺める。
最悪だ。
iPhoneがある所為で何も「文化的」じゃない。
気を取り直してApple Musicを開いた。
この時点で何も学べていない訳ではあるのだけれど。
何か海に関する歌を聴きたい、こんなに相応しいタイミングは無いと選んだ「渚のバルコニー」は聴く気分になれなかった。
バルコニーなんてものは庄内にはない。憶測だが。
苛立たしくなって適当に「ユートピア」をシャッフルした。
「ユートピア」は殆どが海を扱う曲を詰め込んだアルバムだ。
ジャケットの松田聖子の潤んだような瞳を眺めていたら、ふと引き戻されるような感覚を覚えた。
マイアミ午前5時。あまり好きでは無くて飛ばしてしまっつ聴いてこなかった曲。
あんまりにも良い。
こんなにも良かったか、気がつかなかった、と情けなくすらなった。続け様に松本隆は天才だ、と頬が緩んだ。
私は明るい歌詞に暗いメロディの曲が本当に好きだ。勿論反対だっていい、明るいメロディラインに暗い歌詞であっても同様に好きだ。対照的であれさえすればいい。
身体が何となく火照る気がして、真上に付いた小さな扇風機の角度を整える。
だけど、本当に海はブルー・グレイなんだろうか。
庄内浜みたいな寂しいところがこんな綺麗な表現を付すに相応しいところである訳がない。
そんなことを考えつつ惰眠を溶かして21時過ぎに目的地に到着した。
海沿いまでのバスはもう終業時間を過ぎていたから、タクシーを使った。
怪訝な目で運転手が私を見ていた。突然だけれど。
お金はちゃんと払うから許してよ、と疎ましかった。
クラゲだけが取り柄の小さな水族館の前で下ろしてもらって、コンビニのおにぎりを食べながら海沿いをふらふらと歩いた。
一本道にはまだちらほらと人が歩いている。
寂れた旅館には小さな灯りが見える。世間は夏休みだった。
ああ、どうして車窓から眺めるタワーマンションの灯りはあれほど暖かく感じるのに、ここは場末かと言うほどにさみしい。さびしい。
今だったら考えられない。
あの時は何かに囚われたように見知らぬ人や場所や、暗闇への恐怖心が薄れていた。
多分、1時頃に堤防の上に寝そべったと記憶している。目覚まし時計を早朝の4時55分にセットしていた。
砂を払いながら起き上がって「マイアミ午前5時」を再生する。
「三叉路でも探すか、もう少ししたら」
そして頼りないほど低い堤防に腰をかけた。
ブルー・グレイだった。
煙るようなブルー・グレイの海。
二車線の狭い道路も、侘しいくらいに人気のない旅館群も、クラゲしか取り柄のない観光ガイドも、何もかもマイアミとは違うけれど、水面だけは等しくブルー・グレイだった。
視覚と聴覚の、埋めようにもない差異を越えようとするその奇妙な切迫が、感覚の全てを奪う。
まるで飢えきった男女の性交渉を刮目させられるかのような衝撃。
期待して待っていた「綺麗」という感情の発露は遅れてやってきた。
帰ろうと思った。疲れ切っていた。
タクシーは呼べなくて、歩きながら母親にラインを送って、小さなバス停のベンチで高速バスの予約を取った。三叉路なんてとうに忘れていた。
ああ、iPhoneがあって本当に良かった。
あまりにも清々しくて、私はどうやって帰宅したのか覚えていない。その夜に親に怒られたのかすらも。
ただ、確かなことは、その日からパタリと松田聖子を聴くのをやめたということだ。
私にとっての19歳の青春はきっとこの夜で、絶対に引き伸ばしたくなかった。
私にとっての聖子ちゃんの思い出は、あの夜にギュッと詰めておきたかった。
どんなに尊く掬い難い記憶も、薄められてしまったら無いに等しい。
このお話を「書けている」というその事実が、私が20歳の青春を認識して、瓶詰めにできた証拠。
終わったことしか書けない。
いつだって、進行形の青春は生々しくて思い出すに耐えないものだ。
話は変わるが、19歳の私に色濃く影響を与えた「マイアミ午前5時」より、彼女といえば「赤いスイートピー」を挙げる人が断然に多いだろう。
最近、偶然にも周りの人たちがこの歌のことを話題にするのを聞く機会が多かった。
私はこの曲の歌詞にずっと違和感を感じていた。
違和感というより、例えばプラトニックラブを死語と考えてしまうようなそんな感情だ。
たばこの匂いのシャツを着るような男が付き合ってから半年過ぎても好きな女の手も握られない訳があるのか。
時代といえばそうなのだが、私はリアルタイムの人間では無いから腑に落ちない。
たばこを吸うような男は総じて女に手を出すのが早いじゃないのと自分の経験が耳打ちする。
あまり良くない偏見であることは知っている。
でもそうじゃん、絶対。
そんな偏見を言いたくなるくらいには稀有で、飛び抜けてロマンチックな歌は、つい最近見事私の鼻歌のレパートリーに仲間入りを果たした。
また歌っているのとでも言いたげな顔をした恋人が「赤いスイートピーって結局何なの」と聞く。
なんだっけと薄く口ずさみながら「ああ、心の岸辺に咲いているはずだよ」と答えた。
「心象表現か、花言葉とか?」
「確か別離だった気がする、お見舞いに行った時に母親がそう言ってた」
違ったかもしれない、と振り向いた時には彼はもう本に意識を向けていた。
「でもね、松田聖子がこの曲を歌った時には、赤いスイートピーって存在しなかったらしいよ」
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