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それからはPiano Manばかり聴いている

 一月某日、私は友人と新宿三丁目を酩酊しながら歩いていた。

大晦日に長く付き合っていた恋人に振られ、どうしようもなく落ち込んでいた時に、彼女が「飲み行こ!」と誘ってくれた。

友人と遊ぶのは楽しいが、約束の時間までに準備をするのに気が進まなかった。

というか、準備をする気力がなかった。

飯田橋で彼女と落ち合って、駅に溢れる人の波を見ながら「コロナどうでも飯田橋!」と笑っている彼女の数歩後ろを歩いていた。

そんなバカなことを言う子ではなかったから、彼女なりに励まそうとしていたのだと思う、健気だと思っていじらしかった。

失恋のショックで一人だとほとんど食が通らず、食べてもそのまま吐いてしまうような日々を過ごしていたので、いつもより遥かに弱っていた私は終電30分前にもうしっかりと酔っ払っていた。


どう歩いて駅に戻ったのか覚えていない。

九段下から、終電の東西線中野行きに押し込まれた私はそのまま眠りの狭間でゆらゆらと座っていた。

いつだって酔っ払いは厄介者でしかないのでそこまでしてくれたことにまず感謝しなければならない。

ラインに「マジでしっかり帰って水飲んで」と書かれていた。情けなかった。


電車の揺れる振動で目覚めると、見たことのあるホームが車窓越しに見えたので、足を縺れさせながら降りた。

荷物を忘れていないか振り返る余裕はあった。

降りたのは、日本橋駅だった。
改札横の柱に身を寄りかからせていたことは覚えている。
お酒をいくら飲んでも吐きそうにはならないのだが、本当に眠たかった。

私は、本来降りるべき駅からは数駅も離れている日本橋の改札前で、くたくたと座り込んでいたらしい。

次の朝、目覚めると隣には綺麗な女の人が眠っていて、私は真っ白いバスローブを着ていた。

バスローブって、映画の中でしか見たことないのだけど、本当に寝起きにきていることがあるのかと少し信じられなくて、夢かと思った。もう一度眠ろうとすると、横の女の人が私にこう言い放った。

「もう起きたの?私9時まで寝たいから、その時になったら起こしてね」

何も理解していない私を尻目に、また彼女は眠りについた。

いや、これはもうなんというか、ワンナイト後の男女のやりとりだ、と思いながらすぞすぞと身を乗り出し、高層マンションの推定10何階の窓から外を眺めていた。

ワンルーム二階から新宿区の汚い生活味の溢れる街並みを眺めるのに慣れていた私には刺激が強過ぎたものの、だからといってもう一度ベッドに潜り込むことも憚られてしまった。

ベッドの先に置かれたローテーブルの上にはスピーカーがあって、ビリー・ジョエルのPiano Manが流れていた。演出が過ぎるようで恐ろしかった。


時計が9時を回ったので、私は彼女を起こした。

彼女は、私がどれほど酷く悪酔いしていたか、そしてタクシーの中でどれだけ泣き喚いていたか、そしてお風呂に入れ、紙をドライヤーで乾かした時に「恋人に一度髪を乾かしてもらって、それがすごく嬉しくて」と呟きながら、そのまま息を引き取るように眠ってしまったことを話しながら、支度をしていた。

「10時半からまた会議なの、この時期なのにね」とパソコンに向かう彼女の背中を眺めながら、私はベッドにもたれた。

画面オフの会社の会議を終えた彼女は、彼女はバスローブのしわを手で伸ばしながら、大晦日に親族が自殺したのだと話してくれた。

この話をここに事細かく書いてしまうと、彼女が特定されかねないので避けさせてもらう。

哲学に身を委ねて死を選択した私の親族と、似たような死に様だったので少し書くことが憚れるということも影響するが。

私は、自分が大晦日に恋人に振られたので、程度は違えど、奇遇だと返すことしかできなかった。

「同じだねえ、同じ日に私たち、大事な人を失ったんだね」

「私のはまだ死んでいないけど」と私は彼女の目を見据えて話した。

「死んだと思わないとやっていけないよ、君は人生最大の失恋を経験したようだから」

「確かにそうだけれど、まだ全然、というか、部屋に恋人のものとか残ってるし」

彼女は微笑んで、「ちょっと待ってね」とつぶやきながらキッチンへ向かっていった。

彼女が紅茶を入れる所作をずっと眺めていた。所作の美しい人が、私は好きだ。

戻ってきた彼女からカップを受け取った。恐らくダージリンティーであろう暖かさを指先から感じながら、眠気が飛んでいることを意識させられた。

「遺品ってことにしよう、捨てなくていいよ。捨てたい時に捨てたらいいんだよ。」

「じゃあまだ、捨てなくていいですかね、服とか」

「いいでしょう、抱いて眠ったっていいよ」

なんだか安心しきってしまって、私は何やらいらないことまで話し始めてしまった。

「美しく生きるための、保証人だと思いますよ。私にとっての恋人も、あなたにとってのお兄さんもきっとそうだと思います。だって、私たちの価値観を咀嚼していいのは、彼らだけだったので。」

彼女は、「あなた」っていう二人称を使うところが、彼女の兄と同じだったと笑って少し泣いた。

キングサイズのベッドの端にいた私は、彼女に「こっちにおいで」と手招きされたので、彼女の腕の中で少し眠った。母親から抱かれて眠るような気持ちだった。恋人と別れてから、初めて安心して眠った気がした。

帰りの支度をしている時、私は彼女から部屋に残っている煙草を持ち帰っていいと言われたので、赤マルとピースを拝借してきた。
「それ、知らない人からもらったのだから、何か具合悪くしたらごめんね」と言われた。
「ハニートラップでもない限りないでしょう、そんなこと」と微笑んで、私たちは別れた。連絡先は聞かなかった。


私と、彼女にとって、世界は「彼」がいなくても、元どおりに回ってしまう。

でも、私たちの中に、綺麗で、優しいままの思い出として彼が存在するにはこうするより他になかったように思う。

けれど、私たちにとって、「彼」が存在していた時間は、全て救済であった。きっとこれから何もかもが変容を重ねるけれど、これだけは永遠だ。

帰りにApple musicにビリー・ジョエルを追加した。寂しさを埋める「Piano Man」を二人ともが求めているとしたら、どんな偶然だったのだろうかと思いながら、今度はしっかりと帰路についた。

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