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議論についての議論

先日AbemaTVで見た、「議論についての議論」が面白く、そこから思い出した自分のエピソードと意見について投稿してみようと思います。

この議論の中で、
「アメリカなどはディベートの授業をしている。そこでは自分がなんの意見を持っているかは関係なく、決められた立場で議論を行う。」
という話が出ていました。

その話で、自分の高校時代に「きのこの山 vs たけのこの里」のディベートをしたことを思い出しました。
その時のことを思い出す中で更に思ったのは、「良い議論ができることと、その意見を支持することは別物なんじゃないか」ということです。

授業では5人ずつランダムにふたチームに別れて、それぞれきのこの山派、たけのこの里派としてディベートを行います。チーム分けの後、1~2週間の理論組み立ての時間を与えられます。
それぞれのチームはその間に様々な視点からできる限りの材料になることを、数値や仮説などで集めて戦略を練ります。またそれに対する考えられる反論についても対策を練ります。

ディベート開始前にはたけのこの里派が8割以上の票を集めていました。そして私はきのこの山派チームでした。

私たちのチームは、株式会社明治のホームページを見たりして、実際に公式として出ているそれら2つの製法や材料の違い、歴史などについて徹底的に調査しました。

そしていざ迎えたディベート本番ですが、結果としてはたけのこの里の8割の票から逆転し、きのこの山を支持する票が8割となりました。
理由としては、「提示するデータが数値だったり根拠のあるもので納得させられた」「相手の反論に対してしっかりメモをとっていたり、議論に対する姿勢が良いと思った」といったものでした。

この議論には、テーマや結論出しについていろいろ脆弱な点があると思います。でも私はこれを振り返り、
「この議論を経た結果だけで、私はきのこの山が好きかたけのこの里が好きかなんて変わりっこない。きのこの山派の議論の仕方に納得をしたために得た票であって、明日からきのこの山を進んで買うという人口が増えたわけでは恐らくない。つまり、議論の仕方について支持することと、その意見そのものを支持することは全く別なのだ」
という感想を得ました。

それでは議論の意味が無いと思われるかも知れませんが、ここまで真剣に議論した上でそれでもたけのこの里を購入し続けることと、自分の好き嫌いのみの尺度で購入し続けることではかなり意味合いが異なると思います。

この例ではかなりフラットなふたつのブランドなのでイメージしづらいかも知れませんが、これが「ファストファッションの購入の是非」だったり「肉食か菜食か」だったりした場合はまさに上記のことが意味を持つと思います。

まとめると、どんな意見を主張して議論をするにしろ、「データや根拠を提示し、更に相手の意見を聞く姿勢を見せる良い議論」は大切であり、それを視聴し評価する側も「議論のあり方とどちらの意見を支持するか」を切り離して考えてよいというふうに思いました。

最後まで読んで頂きありがとうございました。

Veni,

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