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記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。

ネタバレを含む『N号棟』の感想、考察

※注意!

この記事は現在公開中の映画『N号棟』について、『ネタバレしまくり』で『素人の拙い考察』と感想を、『思いつくままに』書き散らしたものです。

故に、まだ見てない、ネタバレは避けたい、素人の考察なんざ読みたくねぇよ、という方はお読みになられない方が良いかと思われます。
ついでに、説明の都合上、他作品のネタバレも少し含まれます。
(別にいいよ、それでもいいよ、という方はどうぞ)



(あらすじについては公式サイトなどで見ていただいた方が早いので、ここでは割愛する)

試写会等で先にご覧になられた方々の感想に多く見られたのは『和製ミッドサマー』というような表現だった。

確かに、かつての心霊事件以後、団地内で構築された独自の宗教ような住民の様子。そしてそれを率いる中年女性『加奈子』と団地管理人の描写はホルガ村のそれを彷彿とさせる。

だが、『ミッドサマー』のホルガ村の根本にあるのは、キリスト教到来以前の北欧独自の信仰に基づくものだ。

一方、『N号棟』の団地における異常性の根本にあるものは(恐らく、かつて団地が有名になった心霊騒ぎの原因である)『加奈子の交際相手(の遺体)』である。

作中、加奈子の語った言葉を『信じるならば』、その交際相手の死を契機に怪現象が起き始め、それによって死後の世界と霊魂の存在を確信し、『死は恐るべきものではない』と考えるようになった彼女がその教えを団地住民たちに広めて現在に至った、という背景があるわけだ。彼女によれば、住民たちは今は彼女の考えに賛同し、もう死んでしまった家族と仲良く暮らしている人たちも少なくないという。

だが、本当にそうなのか?

そもそも、上記の説明は加奈子によって語られたものに過ぎず、それを裏付ける描写はない。それについて、管理人を始めとする他の住民が同意したり、裏付けるような証言をすることもない。
作中で何度か起こる、建物全体を揺るがすほどの大規模な怪現象。加奈子は、それが主人公である史織たちが霊の存在を信じず無礼な態度をとるから怒っているためのものだという。そして、その現象の度、住民たちはそれぞれの部屋から外に飛び出して恐慌状態に陥り、そして惨劇が起こる。

自分は、その恐慌に陥った際の住民たちの行動に違和感を覚えた。
(そのシーンの全体をはっきり確認できたわけではないので他については何とも言えないのだが)ある住民は恐慌状態で外廊下に飛び出して来て、廊下の鉄柵を両手で掴んで揺さぶっていたのだ。

もし自分があの団地の住民だったとして。加奈子の言うように死後の世界や霊の存在を信じ、死んだ家族の霊と暮らしているとして。
あれほどの地震かと思うほどの状況なら、まずは身の安全を確保してから建物の外へ、例えば中庭などに出るのが普通ではないか。
しかし、住民の中でそのように動く者はほとんどおらず、先述したような恐慌状態に陥った者ばかりだった。

もしかすると、彼らは加奈子の言葉を心の底から信じきれていないのかもしれない。
(恐らく、過去の事件や彼らの言動からすると霊の存在については信じているのかもしれないが)
死んだ家族の霊と共に暮らしているというが、それが本当に良いものなのか、そもそも本当に家族の霊なのか、その辺については信じきれていないのではないか。
であれば、加奈子の語る『死は恐ろしいものではない』という言葉も怪しくなってくる。
そう考えると恐怖や不安が込み上げてくるが、しかし、その考えを口に出すわけにもいかない。
そうした感情が噴出した行動が、あの住民たちの恐慌の様子だったのではないだろうか。
自分は鑑賞中、そのように感じた。


さて、話を戻すと。
応援コメントを出された関係で、ツイキャス『禍話』のかぁなっきさんは公開前に『N号棟』本編をご覧になられており、禍話本編でも『N号棟』へのネタバレに配慮した言及が何度かされている。
先の『ミッドサマー』云々という話についても、禍話でもそのような言及があった。
そのため、鑑賞前の自分は、

『ミッドサマー』っぽいという感想を抱く人がいることを把握しつつも、それに捉われないようにしよう。

そんな考えを念頭に置いた上で、この『考察形ホラー』と銘打たれた映画を観ることにした。


そして本編を鑑賞したわけだが、鑑賞中に自分の頭の中に、
(こういうタイプの作品なのでは?)
と、浮かんだ作品名がいくつかある。

まず、H・G・ルイス『2000人の狂人』

南北戦争時に命を落とした亡霊たちが、自分達の村に迷い込んだ若者たちを虐殺するというスプラッターの元祖というべき作品だが、つまり無人の廃墟である団地に住む、いるはずのない住民たちは既に亡霊であり、史織たちをあの世へ誘おうとしている。そういう話なのでは? と、そう予想したわけだ。
(もっとも、これについては上手く言えないが違うような気がする)

もう一つは『恐怖の足跡』そして『ゾンゲリア』である。

『恐怖の足跡』は凄惨な事故からただ一人生き延びた女性が、それ以来周囲に現れる亡霊に悩まされるという話。
『ゾンゲリア』は平和な街で保安官を務める主人公が、突如起こった凄惨な事件の背後に恐ろしい事実が潜むことに気づく、というものだ。
特に前者などは『シックスセンス』の元ネタだとも言われたりする。

『シックスセンス』のオチは有名なので、自分がどんな予想をしたのかわかってもらえるだろう。
つまり、『N号棟』とは既に死者である史織が見た死後の世界、というより『生と死の境目の世界』の話なのではないか、とそんな考えが浮かんだのだ。


予告編等で本作のあらすじを知っておられる方なら、主人公である史織がタナトフォビア(日常生活に支障を来すほどに死への恐怖を感じる状態)であることはご存じだろうし、本編をご覧になられた方なら、冒頭の大学での講義の場面やその後の講師との対話、その後病院に赴いてもはや余命幾許もない状態の母親がいるとわかる場面、それらについても知っていることだろう

もはや回復の見込みもなく。生命維持を続けるか、それを打ち切る判断をするのか。という状況だ。
台詞等から推察するに、
『頼ったり相談できる親族が皆無と思われる』
史織は、母に対してどう決断するか決めかねていて、それに対して担当医は半ば苛立った様子で語りかける。

(ともすれば、作中で語られていない、それ以前のエピソードもあるのかもしれないが)
史織がタナトフォビアに陥った、あるいはそれを悪化させた、その一因は、この辺りにあったようにも思える。
(もっとも、この『シックスセンス』説は自分の頭に浮かんだものに過ぎず、裏付けるものも多いわけではないので、単なる与太として流してほしい)


自分が引っかかった演出として、史織が問題の団地に寝泊まりするようになってからの、とある描写がある。

(本来の目的を隠して)団地住民との交流を成し、そこで一夜を過ごした時。
史織は突如、加奈子に寝ていた部屋へ侵入され、最終的に加奈子に刺殺される。
それは夢の内容で、翌朝、史織は夢の内容に戸惑いつつも何事もなかったかのように目覚めるのだが……。

目覚めた史織の周囲で、夢の中で彼女が逃げる際に倒したのと同じように、家具が倒れたままになっている。
これはどういうことだろう。

……その時の光景は、夢ではなく、(ある程度は)現実だったのでは?

もちろん、就寝前と起床時、そして夢の中で史織の着ている服が違う。
史織の隣では元彼の啓太も眠っていたのだから、何かあれば彼も気づくはずというのが道理だ。

しかし、家具は就寝前と起床時で場所が変わっている。

(もし、自分の見間違えで実際はそんなことはない、就寝前からそうだった場合、全ての考察が崩れてしまうのだが、ここでは実際動いていた、ということにしたい)

最終盤、団地のある『秘密』を見た史織へ住民たちが迫ってくる。その中には、先に集団の思想に感化され仲間入りしてしまった啓太や真帆の姿もある。
そして史織は集団に取り囲まれた中で加奈子の説得を受ける。
(要約)『死は恐ろしいものではない。だから、死ね』
そして史織は自分の抱える死の恐怖を涙ながらに吐露した後、自らの腹をナイフで刺し……。

ついに住民への仲間入りを果たす。

団地の中庭で行われる儀式に参加する史織の服装は、先に仲間入りした友人たちがそうだったように、今まで着ていたものと異なる、住民たちと同じようなものになっている。

そして、恐らくそれまでの日常に別れを告げるべく、史織は大学、そして母のいる病院を訪れる。
(この時、史織は母に繋がれた呼吸補助器を外してその命を絶つのだが、そんな彼女の前に先程死んだばかりの母が現れ、二人で抱き合うという展開がある。これはやはり、史織が加奈子の言う考えを受け入れたからこその光景なのだろうか)

そして場面は変わる。
団地の一室で目覚める史織。窓から差し込む陽光に照らされながら起き上がる彼女は、真っ赤なワンピースを着ている。
窓を開けて外を眺める彼女の姿を中心にカメラがズームアウトしていき、団地の全景を映す。そこには、あれだけいたはずの住民の姿は一切なく、それどころか人が住んでいる気配すらない。
噂通り、廃墟と化した団地の全景と共に、『N号棟』本編は終わる。


こうしたストーリーを見ると、
(本当にあの団地には住民はいたのだろうか。いたとしても、それは生者でなく、既に全員死者だったのではないか。
物語冒頭、大学の講義で講師の言った『生と死の境目とは何か』という言葉。その答えが、このN号棟という団地だったのではないか)
そう思えてくる。
だからこそ、自分の脳裏には『2000人の狂人』や『シックスセンス』が浮かんだのかもしれない。

(最後に史織が大学を訪れると、その講師も連絡なしに急に姿を消した事実が判明する。彼もまた史織と同じように、かつて自分も死ぬことを恐れていたと言ったが、それが彼のリップサービスでなく本心だとしたら、彼もまた史織のように『生と死の境目』へ赴いたのかもしれない)


長々と妄言を書き散らしたが、最後に三つほど気になった点を。

①団地にあった謎の施設。
住民たちから逃げる史織が入り込んだ建物、そこでは謎の男性が遺体(作中で自殺を遂げた母子? あるいは他の誰か)を切り刻んでいる。
史織に気づくと男性は彼女に襲い掛かるが、返り討ちに遭ってしまう。
この段階では団地住民=加奈子に率いられたカルト集団と考えている史織は男性にいろいろ問いただすのだが、
『俺も雇われただけなんだ』
男性はそう泣き叫ぶばかりである。
(そして最終盤、『死は恐ろしいものではない』と説く加奈子によって彼は刺殺される。
『ほら、幸せそうでしょう?』と)

結局彼は、あの建物で何をしていたのだろう。
加奈子から何を依頼されたのだろう。
(さらに言えば、その後に中庭で行われた火葬のような儀式は、いったい何だったのだろう)

②住民たちの服装、その色
本編を見ると、住民たちの服装の特徴に目がいく。彼らの服は主に三色、白、黒、赤で構成されている。
大半の住民、モブとして存在する住民たちは全身白一色だが、例えば先述した自殺する母子、作中でセリフのある住民(つまり史織たちに積極的に接触してくる人々)、そして加奈子や管理人のように他の住民を率いる立場にある者の服はそこに黒か赤が加わる。

特に加奈子や管理人はやはり特別なのか、その三色全てが揃った服装である(さらに言えば管理人。彼がずっと着ている黒い羽織の背中には女性の顔の刺繍がされている。これがかなり印象的だった)

また、団地内の施設で遺体を切り刻んでいた男性。彼の衣装は黒一色である。

もしかすると、住民の中には役割や階級のようなものがあるのかもしれない。さらに言えば、それぞれの色にも意味があるのかもしれない。

史織より先に相次いで集団に取り込まれた啓太と真帆。彼らがモブ住民と同じ全身真っ白なものに着替えていたのも、彼らが新入り、下っ端になった、ということなのだろう。

そうなると、最終盤でついに住民に仲間入りした史織の衣装である。
中庭の儀式に参列する際、史織は黒と白の衣装に着替えている。
そして最後の場面では赤いワンピースを着ている。
彼女も友人たち同様新入りのはずなのに、白一色ではない。
これは何を指すのか。
恐らくだが、タナトフォビアに憑かれていた史織は、それ故に死について考え続け、友人たちよりも団地住民への親和性のようなものが強かったのではないだろうか。だからこその特別待遇、なのかもしれない。

③食事とキス
今作で何度も登場する描写がある。それが食事とキスだ。
食事に関して言えば。
団地内に潜入した際に何か煮炊きしている様子の管理人に遭遇するところから始まり、史織たちを新しい入居者と勘違いした住民たちによる歓迎の食事会。
中庭で開かれる昼食会。
そして折に触れて史織たちに差し出される、飲み物の入ったマグカップ(最後には史織は住民の仲間入りをした啓太たちにむりやりマグカップの中身を飲まされる始末だ)

例えば『ヨモツヘグイ』というものがある。
※参考

多少知識がある方なら、先に述べた自分の考え、団地は生と死の境目にある地で、住民たちも既に霊なのではないかという考えから、そのヨモツヘグイを連想するかもしれない。実際、自分もそうではないかと思った。
確かに『黄泉の国の釜で煮炊きしたもの』と考えれば、団地内で出てきた飲食物はそういう意味合いがあると言えるだろう。

しかし、史織が団地のことを知る前、つまり物語冒頭でも飲食にまつわるくだりはある。
つまり、夜ごとタナトフォビアに悩まされる彼女が一人でいることの寂しさを紛らわすように同級生を鍋パーティーに誘ったり、元彼である啓太を酒に誘ったりするシーンだ。

ここで話を変えてもう一つの描写、キスの話をしよう。
特に印象的なシーンは三つ。
まず住民たちと同じ部屋で雑魚寝をしていた真帆の前に、先程目の前で自殺したはずの女性が現れる場面だ。
驚く真帆に女性はとある秘密を打ち明け、『二人だけの秘密』と約束させた後でキスをする。

そしてその後、住民に取り込まれた真帆はその突然の異変に戸惑う彼氏である啓太の前で住民女性とキスをして見せ、その上で言う。
『今までにないほど人とのつながりを感じられている。幸せだ』
と。

もう一つは物語最終盤。
『死は恐ろしいものではない。だから死ね』と迫る加奈子。
最初は拒絶し泣き叫ぶ史織だったが、次第に様子が変わっていき、最後にはこのように叫び始める。
『死ぬのは怖い。みんなと一緒にいたい。離れたくない』
そして史織と加奈子はキスをして、物語はラストへと向かっていく。

思うに、『N号棟』における食事とは、単なるヨモツヘグイではなく、『同じ釜の飯を食う』という言葉が示すような、

『人と人との繋がり』

それを表すものなのではないか。
そして、それをもっとわかりやすく示したものが、言うまでもなく他者への親愛の情を示す行為である『キス』なのではないだろうか。

(他にも、同室で一夜を明かす際、自分の抱える恐怖について打ち明けた後、史織と啓太がキスをするシーンがあるが、これもまた同様に人と人との繋がりと言えるだろう)

だからこそ、最終盤に加奈子や住民たちの前で慟哭したように死と孤独を恐れる史織が、食事や酒に仲間を誘い、啓太に自分の抱える恐怖を打ち明け、母親の最期について苦悩する。そんな場面がいくつもあったのではないか。
そして、その恐怖と苦悩への答えを見出したからこそ、彼女も最後は団地の住民になったのではないか。

そう考えると、この『N号棟』という作品のテーマは実は『人と人との繋がり』だったのではないかと、自分にはそう思えてくる。

だとすると、ラストシーンでの史織は、団地の窓から外を眺める表情が穏やかな笑顔だったことからもわかるように、恐怖と苦悩から解き放たれてとても幸福な状態にあるのだろう。
だから、この映画はハッピーエンドと言っていいのだと思う。


長々と妄言を書き散らしたが、
『結局、お前は何が言いたいんだ』
と思われる方もおられるでしょう。

一言で言えば『わからん!』

まあ、つまりそれだけいろいろ考えさせられる、『考察方ホラー』の名に恥じぬ作品だということです。
そんなわけで、みんなも『N号棟』を観よう! そして頭を悩ませよう!

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