当事者不在かつ、いろいろ捻じ曲げてるかもしれない思考ですが書いちゃいまいした

新しい骨董」というアートというか、経済ぶっこわし運動(米騒動100週年ですね)なのか、新しい経済活動なのか、そういうものありまして。

セルフビルドの家の欠片、川で拾った錆びきった何だかわかんない工具(これは買って持ってる)、破れた納豆パックを金継ぎしたものやら、浜辺で拾ったカップラーメンの容器の欠片(これがまた陶片のように見えるんだ)を、ネットで売る。直売もする、という活動です。

そうそう、2018/01/07に、名古屋は新栄でやるイベントでも、新しい骨董の直売会とトークがあるので、よかったらぜひ。ギリギリすぎる告知ですが。

自分自身は引きこもり経験はないのですが

3年くらい前に引きこもり支援のすごい人というか、すご過ぎてドン・キホーテかあなたは?っていうくらいの人が、

自分のやっていること(引きこもり支援)が全然人に説明できない

というので、数人×数ヶ月がかりでメソッドを引き出そうとしたことがありました。結局、ある程度やったら、さすが実際に経験している本人は、見事にご自身で体系化しちゃいましたけど。

そのときに聞いた話。
引きこもっている人は、多くの場合、その引きこもっている部屋の特定の場所やモノに固執していることが多いそうで。
そういう場所やモノへの固執=依存を断ち切るんじゃなくって、こだわる場所やモノを増やしていく、その流れでその対象も「場所やモノ」から、「ひと」に依存することで、特定の場所から出ることができる一歩になるそうなんです。

その痕跡は、とても愛憎半ばするものなんじゃないか?

ここからが、突然頭の中でつながっちゃった部分です。
自分は、かつて引きこもってた人たちが「どうやって他者とコンタクトしていいかわからない」という話を、職業上近接していることもあって、良く相談を受けるというか、延々と話を聞き続けることがあります。多々あります。

うーんと、

「私は/僕の、引きこもり時期の思い出はこれです。執着してたものです」

というのを、一箇所に集めて一斉に披露しあったら「新しい骨董」的な感じで面白いんじゃないかな、と思ったのです。

会場さえ許せば、ベッドを持ち込んでもよいし、着る毛布もステキ。使い込まれまくったプレステのコントローラーなんて、もう一体どれだけの心踊る冒険や、怠惰なレベル上げの時間をともに過ごしたのか・・・。
そういうところから、我も人なり彼も人なりというか、「同じ心境を味わった人たち同士だが、決して体験は同じではない」という相互の意思疎通をはじめてもいいんじゃないかなー。
ひとりひとりが固有の物語を持っているという点で、『華氏451』のラストシーンを思い出してしまいました。

というわけで、今回はここまで本題は終わり。あとは思考中の蛇足です。

お互い”他人以上顔見知り未満”に戻っていい関係

「いきなり友だちはしんどい」「知り合いも微妙」「顔見知り・・・」。上記の元引きこもりしてた人と話すときに、人と人の距離のつかみかたにストレスを感じるんだなぁと気付かされましたが、いや、それ自分も全然そうだしって思うんですよね。幸か不幸か記憶力がいいせいで、「自分は覚えているけど、相手は忘れている」ってことが多いタイプです。あーやだやだ。

そんで、ここんところ考えているのが、

いつでも顔見知り”未満”に戻ってもよい、とお互いに了解しあう関係づくり

というやつで、別に実践するんでもないんですが、まぁ日常的にそういう心構えでいると、割りと気が楽だなと思うんですよね。
年の功の処世術ではありますが。

つまり、仲間仲間してるのが、あんまり好きじゃないんですね。だから、そんなに仲間とか友だちとか慌てて関係づくりしようとするよりも、

「ここのところ、ちょっと調子悪かったし、みんなどうせ自分のことなんで覚えてないかもしれないな。でも、まぁよく考えたら自分も誰かに対してそういう風に忘れちゃうこともあるし、お互い似たようなもんだな」

という意識がセットできれば、けっこう共感できる人は多いと思います。
友だちとか恋人とか、そういう関係をどうしても神聖視しちゃう人は多いけど、いきなりそこを目指すよりは、しんどくないしいいと思うなぁ。

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