物語の終わりを知るとき
9月2日夜、そのニュースは飛び込んできた。
一時間後に推しグループRYUTistファンクラブの配信が迫っており、ウキウキしていた。だが記事のタイトルを読んだ瞬間からその気持ちは吹き飛んでしまい、配信までの時間がやたら長く感じられた。
いったいなぜ?いつから決まっていた?どういうこと?
特にそういう疑問を払拭する説明もなく、画面にはメンバーの緊張した面持ちが映し出されていた。報告とメンバーからの言葉が読み上げられた。
なんとかコメントを絞り出すファンの人たち。メンバーは言った。
「ありがとう。ファンの皆さんは優しいね。どう受け止められるか心配だったよ」
それは自分に向けられた言葉ではなかった。
自分は何もコメントできなかったからだ。
飼い犬が外に出たがっていた。この時間、トイレついでに外を眺めたがる。
いつもと何も変わらないふりをして首輪にリードをつけ、外に出た。
玄関先で、犬がクンクンと鼻を動かしている。
遠くに点滅する信号機が見えて、急に現実がグワッと襲い掛かってきた。
その場に座り込むと、自分でも聞いたことないような嗚咽が一呼吸だけ出て、大粒の涙が落ちていた。
犬がそれを聞いて驚き、心配そうに駆け寄ってきた。
その優しさが申し訳なかった。
翌日、仕事が手につかないのはわかりきっていたので、午後に休みを取った。
会社近くの川に行って流れる水をぼんやり眺めた。
ちょうどいい機会だったので、町中まで車を飛ばし、ルックバックを改めて見てきた。
最初に見たときに考察とかは散々こねくり回したので、今回はかなり素直に物語や映画の表現を楽しんだ。京本が出てくる場面からもう涙が出てきて、後半はずっと号泣していた。
目が腫れたかと思うくらい泣きはらしたが、それはあくまでルックバックに対してであって、映画を見終わっても依然RYUTistのメンバー卒業、活動休止に対しての気持ちは晴れなかった。
何を買ったり、飲んだり食べたりしても何も変わらない。
帰ってまたぼんやりした。
ふと、ラジオで聞いたピアノの旋律が頭に浮かんできた。
調べてみると、岩手のアーティスト日食なつこさんの「音楽のすゝめ」という曲だった。Youtubeで聞いてみると、歌詞が書いてあって、聴きながら食い入るように読んでしまった。
「一つ、知識や偏見をまず置いてくること
二つ、好きか嫌いかはあとで考えること
三つ、揺れて動いた心に従うこと
~
四つ、愛の深さを比べあわないこと
五つ、神様みたいに信じすぎないこと
六つ、あんまり大事にしまい込まないこと
~
七つ、どんな歌も終わりがあると知ること
八つ、泣いてもいいからちゃんと次にいくこと
九つ、即ち音楽これ人の心
絶やしちゃいけない人の命 そのものなんだよ」
夜、推しのインスタライブがあった。
あまりにもファンが沈んでいるので、明るくしたかったらしい。
「コメントできなくてごめんね」
一言書き込んだら、それを見た推しがグッと押し黙って、
「謝ってほしくない」
と言った。
そのあと、いつも通りの明るい配信になって、他愛もないことで盛り上がったりして、勝手にいくらか救われた気持ちになった。
配信が終わった後、日課の30秒ドローイングをした。
ルックバックの劇中の言葉が思い出された。
「描いても何も役に立たないのに」
驚いたことに、先述した『音楽のすゝめ』も「音楽ってなんか役に立つのか?」という疑問へのアンサーとして作られた曲だという。
描くことで救われた気になっている自分がいた。
描くことは祈りに似ていた。
いまさら何をしたところで、メンバーの卒業・活動休止という未来は変わらないだろう。
どう受け止めるかということだ。
どう迎えるかということだ、物語の終わりを。
そのとき自分が納得しているかどうか、笑顔で送り出せるかどうか。
自分は知りたい。描くことでそれが叶うかどうか。
描くことが何かの役に立つかどうかを。
3か月後の自分がどうなっているかはわからない。
それはこれから3か月の間、自分が描くことで作り出すのだ。
ショックで立ち止まるわけではなく、少しでも時間を推しの絵を描くことに遣いたいためです。ご承知ください。
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