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いっそあのとき

 ある晴れた休日。私は軽快に自転車を漕いでいた。
 見慣れない土地で、スマホでルートを確認しながら目的地へと向かう。

 大学一年生の2、3回目の土日の出来事である。
体育の授業のために体育館シューズが必要となり、さらに大学でバスケ部に入るつもりだったのでこれを機に新しい"バッシュ"(バスケットシューズ)を買おうと決めて、一人暮らしのアパートを飛び出した。

 県外の大学に進学して、入学以降大した散策はしていなかったからいい機会だった。早速、最寄りのスポーツ用品店へと向かった。

 大通り沿いにあったそのお店は、規模は大きいもののたくさんのスポーツに手を広げているために一つ一つの種類はごくわずかとなっていた。


 中高とバスケをやってきて、おそらく5、6足はバッシュを買った。いや、買ってもらった。最初は見た目重視で選んでいた。それがだんだんとシンプルなものへと嗜好が変わっていった。実際、その日もシンプルなものを求めて、買い物旅をはじめていた。

 自転車で軽く行ける距離のスポーツ用品店には、納得のいくものはなくて、
より遠方へ向かうことにした。


 おそらく30分以上は自転車を漕いで、スマホなしでは帰れないくらいの距離まで来た。そこも比較的大きめなところで、たぶんそこで気に入るバッシュが見つかったんだと思う。だいぶ記憶が曖昧なのは、そこのお店に着く前に起きた出来事の衝撃に圧倒されたからだと思う。


 遠方へ行こうと決意し、自転車を進め、途中踏切があるところを通過しようとしていた。
 踏切はカンカンカンと音を鳴らし、バーをさがりつつあったが、その時の私は、
「あ、このスピードならくぐれるだろう」と認識して、通過しようとした。
しかし、それは誤認識で、あっけなく踏切中央で閉じ込められてしまった。
とっさの人間は意外と何も行動できないらしく、状況を理解した上で硬直してしまい、その場で立ち尽くすしかできなかった。

 その状況で踏切の向こう側にいた外国人と日本人の夫婦気づいてくれて、
手前のバーを持ち上げてくれて、なんとか踏切から出ることができ、死なずに済んだ。


 もしあのとき、夫婦がいなかったら。もしあのとき誤認識しなかったら。と後になっていろんな選択肢が浮かんでくる。
 私の人生観の根底にいつもあるのは「何事にも意味がある」だから、この出来事に落とし込んでみると、あのとき生かされたことに意味があるということになる。
実際、助けてもらえたのは非常に光栄なことだが、あのときにはねられて、死んでいたらどうだったのかなと思ってしまう自分もいる。

 現在、無機質な生活を続けていて、いつまでこの環境が続くのだろうかを多々
思う中でいっそあのとき、、なんて馬鹿げた思考にも簡単に繋がってしまうような人間に果たして生きながらえた意味はどこにあるんだろうと模索するのであった。

チキン南蛮定食をたべます。