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珠玉じゃなくていい

漠然と、全てを求めていた。
「いつかは自分の作品を世に轟かせたい」「"一世を風靡“という言葉が似合うようなことをしてやりたい」と、本気で思っていた。本気で思って、対する己の小ささや無力さとの乖離を嘆いたり苦しんだりしていた。
一方で、広い世の中には轟かない、小さな優しい世界たちのことを慈しむふりをして、こころのどこか、すみっこで、もしや軽蔑してはいなかったか。
これまでの己を振り返った時、わたしはそれが少し不安になる。

好きな音楽、好きな国、好きな舞台。
好きな服、好きな時代。
そういうものを、ただただまっすぐ作り続けたり、愛し続けたりする人がいる。それがもし孤独だったとしても、他者に阿らず。
そうして、自分のための世界を、自分のために丁寧に作っている。
でも、それでほんとうに孤独だった人は見たことがない。彼らの「好き」は彼ら自身の丁寧な美学の上で広がり、その先で誰かの「好き」と絡まり、少しずつだけれど、でも確実に編まれていく。
そうして「自分のための世界」が「自分たちのための世界」になり、少しずつ変化していくのだ。
・・・と、わたしは想像する。

こういう人たちを見ていて、本当に尊いことだと感じるようになった。すごく幸せなことを実現しているのではないかと思う。
結局、「自分が一番愛せる空間を作ること」「それを、できたら人と共有したり、交換したりできること」がいちばん ー少なくとも、今のわたしにとってはー 幸せなのかもしれない。
この時、「大きくなる」「たくさんの人に知られる」といったたぐいのことは、副次的な要素なのではないか。
いや、そういうものもベクトルのひとつとして持っているとたしかにモチベーションになるんだけど、それが目的になった場合、その先にあるものってなんだろう?
わたしにはその向こう側がよく見えない。
なので、わたしは"向こう側"より、これまでたどってきた道がどこに広がるか、広がった先で誰に出会えるのか、大事に見ていきたい。

こういう世界のうつくしさをわたしに教えてくれたのは、やっぱりわたしの好きな世界たちだった。地元の赤提灯の居酒屋だったり、大須の骨董おもちゃ屋さんだったり、インスタで見つけた花屋さんや、日暮里の古着屋さんだったり、散歩中にふらっと入った中目黒のカーペット屋さんだったり、好きな俳優だったり、丸亀商店街でお茶を飲む商工会のお父さんたちだったりした。今日は大塚駅前のポップアップで出会った。

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誰もが美しいと目を細める宝玉じゃなくてもいいじゃないか。
ゴツゴツした岩やちゅるちゅるした軽い石だって、良い。彼らがどんなところから来て、何に出会い、どうして転がり、この手の中にあるのか。それを知る旅をするのも、一つの宝探しみたいなものだと思うから。

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