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春一番 (終)

おれは、恥ずかしさで穴があったら入りたい心境だった。
早苗の初めての相手として、早漏で終わってしまい、早苗に恥をかかせることになったからだ。
早漏も早漏、体を重ねただけで、ほとばしらせてしまったのだから…
あの時の早苗の、おれを憐れむような顔が脳裏に焼き付いている。
年下の女から、憐憫の情をかけられるほど情けないことはないだろう。

「もうええから帰って、お兄ちゃん」
そういう目をしていた。

その日の夕飯の時も、おれは早苗の顔をまともに見られなかった。
彼女もどこかよそよそしかった。かつてない表情に思えた。

五月の連休も明けたころ、オカンから、
「あんた、早苗ちゃんに、なんかしたんか?」と、訊かれた。
「えっ?」
「早苗ちゃん、ここ出て、一人暮らししたいって言うねんよ」「ほうか」
「ほうかって、あんたから逃げたいよって、あんなこと言うのとちゃう?」
「お、おれ、なんもしてへんがな。いとこやで…」
「いとこでも、年頃のべっぴんさんやから、あんたも変な気を起こさんともかぎらん」
「おいおい、待ってぇな。オカンも考えすぎやって」
とは言いながら、おれの顏はひきつっていたかもしれない。
「お父ちゃんに似て、スケベやからなぁ」
「ほっといて」
おれは、早々にその場から立ち去りたかった。
「もう、行くで」「今日は遅いのか?」「めしはいらん」「わかった」

大学へ行く電車の中で、おれは考えていた。
「あの事」しか、原因は考えられへんかった。
早苗は、おれから遠ざかりたいのだ。
しょせん、いとこ同士は、実らん恋である。
早苗がおれと距離を置きたくなるのもわかる気がした。

「桜ノ宮のトルコで童貞を捨てた時、三十くらいの姐さん相手に、そこそこもったのになぁ」
まだ十九になっていなかった「あの頃」を、おれは思い出していた。
それほど早苗との体験は、おれにとってピュアなものだったのだ。

その日は、細井修一と鶴橋(つるはし)のホルモン屋で飲んだ。
オッパ(韓国語で「兄さん」)という屋号の店で、カンテキ(七輪)を囲んでイカのようなミノやら、ツラ、タンを自分で焼いて食うのだ。
やかんに入った白い酒「まっこり」を湯飲み茶碗で回し飲みする。
おれはあまりこの酒が好きではない。じきにビールに切り替えた。
一人二千円で、たらふく飲んで食えた。

それでも十時には帰宅し、蛇口から水を飲んで、ガスレンジの鍋の中を見た。
「なんや、肉じゃがかいな」
もう、肉を見るのもいやだった。
オトンは風呂に入っているようで、歌が聞こえた。
オカンは…便所かいな。
便所の戸が開いて、オカンがセーターのすそを直しながら、こっちを見る。
「なんや、帰ってたんかいな」
「うん」
「今日な、早苗ちゃんのアパート探しに、いっしょに行ったげたんよ」
手拭いで手をふきつつ、言う。
「ほうか。どやった?」
「緑橋二丁目にいいのがあったのよ」
緑橋二丁目といえば、森ノ宮駅の東側だった。
「みどりばし?あんなとこ」
「あこやったら、便利やし、環状線も近いから」
「ふぅん」
おれは、反論する気もなかった。
「さとし、ご飯食べるんやったら、用意しよか?」「いらん」
おれは、そのまま二階に上がった。
早苗の部屋には明かりがともり、テレビの音がしている。
「さなえ」
おれは、障子越しに声をかけた。
「はぁい。入って」
「ほな」そう言って、おれは障子を開けた。
パジャマ姿の早苗が、ポータブルテレビを前に、布団の上でくつろいでいるところだった。
「おまえ、ここ出ていくんやて?」
一瞬、早苗の表情が硬くなったように見えた。
「うん。一人暮らししてみよかなぁと思って。前々から思ってたんよ」
言い訳するように、早苗が口早に言う。
「そうか。こないだ、おれがあんなことしたから、いやになって出ていくんかと思ったわ」
「それもある…」「やっぱし」「あたしら、こんなに近くで暮らしたらあかんと思うの」
きっぱりと、早苗は言い切った。
好きと言っていたではないか…あれは、うそやったんか?
おれは、のどまで出かかっているその言葉を飲み込んだ。
「お兄ちゃん…ごめんね」
「あやまらんでええがな」
「あたし、怖いのよ」「なにが」「好きって、どんどん深くなるんよね」「そやから?」「見えなくなるの」「なにが?」「自分が…」
おれは、言葉を失った。
こういうとき、何か気の利いた言葉を発することができれば、おれもアーティストになれるのにな…
他人の歌ばかり歌っている自分が、この時ほど卑小に見えたことはなかった。
「まぁ、一人もええかもしれん。お互い、大人やからね」
「ふふふ。あたし無理してるかなぁ」
「みんな、無理してんねん」
「ありがと。お兄ちゃん」
「おれこそ、礼を言わんとな」
その晩は、そのまま「おやすみ」を交わして別れた。

前期試験までに引っ越しを済ませたいと早苗が計画し、結局、あの緑橋のアパートに移っていった。
おれも手伝って、彼女の新居に行った。
平野川のほとりで、市内のわりには喧噪に遠く、閑静な感じだった。
建物はいわゆる二階建て「文化住宅」であり、家賃が安いせいか、くみ取り式トイレで風呂はなかった。
それでも二階の端の部屋なので見晴らしは上々だった。おそらくこれが決め手になったのだろう。
「へえ、川が一望できるねんな」
「カーテン買ってこようっと」
「大阪城も、よう見える」
「ええでしょう?」
おれは、早苗と所帯を持って、こういう生活をする夢を描いてみた。
「しかし、ようけの本やな。物理化学?うわ、むっつかしー。さぶいぼ出てくるわ」
「ふふふ」
「ドイツ語もやってんの?」
「そうよ。第二外国語はドイツ語なの」
その利発そうな口が愛らしかった。
おれは、早苗の肩を抱きよせ、唇を重ねた。早苗は目をつむった。
はむ…
何分くらいたったろう?
おれは、早苗のブラウスのボタンをはずしていた。
「お兄ちゃん…あかん…て」
「ええやろ?おれ、やっぱし、おまえが」
そういいながら、早苗の口をまたキスで塞いだ。
あむ…
甘い唾液がおれの口にも流れ込む。
こんどこそ、早苗を犯(や)ってやる。
真っ白なブラジャーを上にずらし、淡い桜色の乳輪と乳首をあらわにして、口に含む。
「はあっ」
ひときわ、大きな声を早苗が上げた。
ジーンズのベルトに手をかけ、硬い前ボタンをはずし、ファスナーをジーッとおろす。
水色の細かいストライプが入ったショーツだった。
「いや」「あかんか?」「やっぱり、こわい」「やさしくしたる」
観念したのか、ズボンを脱がせるときには協力的になった。
おれもTシャツとジーパンを脱いだ。
裸の二人が畳の上でむつみあう。
勃起をにぎらせ、おれたちは見つめ合った。
「おっきぃ」「そうか」「でも、あれつけてくれる?」「あれって」「ゴム」「持ってへん」
そう答えると、早苗は起き上がって、布団袋の中からセカンドバッグを取り出し、見覚えのある袋を取り出した。
「さなえ、そんなもん、どこで手に入れるんや?」
おれは怪訝な気持ちで訊いた。
「どこって、どこでもええやん」
その顔はコケティッシュで、もはや彼女が処女でないことを証明していた。
「そうか、そういうことやったんか」
「なんやの?その言い方」
「早苗には、カレシがいるんやな」
「…」
「信じてたのに」
「するの?せぇへんの?」
早苗が、いらついたような声を上げた。こんな子やなかったのに…
「おまえ、男といちゃつくために、一人暮らししたがったんか」
「なによ、その言い方。そんなんちゃうわ!」
完全に、早苗は怒っていた。
おれは、さっさと身支度を整え、裸の早苗を置いてそこを出た。
悲しかった。
女は、わからん生き物や。
おれのほうが女々しいのだろうか?
早苗のほうが年上に見えてきた。

どこをどう歩いたのかわからないが、おれは、とっぷりと暮れてしまった家の前に来ていた。

あとでわかったことだが、阪大受験を高校時代の彼と目指し、早苗は受かったが、彼氏は浪人中だそうだ。
二人の関係は高三のころからずっと続いていたのだろう。
インキンだってヤツからうつされたに違いない。
二人でおれの早漏を笑っているのかと思うと、腹立たしくって仕方がないのだった。

(おしまい)

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