上条和子の電鍵
ここに古びた真鍮製の電鍵(でんけん)があります。
電鍵って知らない人のために、説明しましょうか。
電信という通信方法が、むかしありました。
今でも一部、アマチュア無線家とか、軍で用いられていますが、ほぼ過去の遺物と化しました。
(上級アマチュア無線技士の国家試験から電信の実技試験が免除されたからです)
電信では、モールス符号(昔の人はトン・ツーとも言いましたね)で通信します。
このモールス符号を打ち出す器具が電鍵です。
見たらわかるのですが、一種の「スイッチ」です。
真鍮の「竿」がバネで引っ張られて上がった状態が「切る」で、手でバネを押し込んで「竿」を下げると接点に当たって「通電」するようになっています。
この「オン・オフ」機構で信号を送ることができます。
ちなみに、電鍵には、写真のような縦振れ電鍵と、高速打鍵が可能な横振れ電鍵があります。
このお話の電鍵は縦振れ電鍵です。
では、この電鍵は戦争を経て幾星霜、どんな困難を乗り越えてきたのでしょうか。
昭和二十年の春、日本の戦局はますます危うくなってきていました。
本土への空襲はひっきりなしで、ここ大阪も相当数の被害が出ていました。
大阪上空への敵機の進入路は紀伊水道でした。
そこで海軍は、紀伊水道の中ほどにある友が島に要塞をつくり、早期警戒網を仕掛けていました。
友が島の要塞には当然、通信基地があり加太の漁港から通信士が派遣されていたのです。
その通信士の中に上条和子(当時二十二歳)がいました。
和子は加太の田倉崎の灯台守の長女に生まれ、大阪の音楽学校でピアノを勉強していたのですが、戦争が始まってしまい練習もままならず、持ち前の絶対音感を買われて軍属の通信士となった稀代の女性です。
通信士はほかにも末次昭江、沢村絹子がいて、彼女らが交代で任務に当たっていました。
もう、この頃になると、男は老人子供を除いていなくなり、銃後の守りを女性が担っていたんですね。
ひっきりなしに、哨戒船(これも民間漁船の借り上げ)や第三十号海防艦(紀伊防備隊)から報告が入ります。
おおかたは、気象通報の暗号でした。
和子は、絶対音感の能力をもっていたので、遠くのエンジンの音で機種がわかるほどでしたよ。
そして、軍属になってから急ごしらえで覚えたモールスの上達も早く、要塞の隊長の覚え目出度かった。
同僚の末次と沢村は、友が島灯台併設の海岸局の通信士で逓信省の臨時官でした。
和子にとっては先輩にあたります
打鍵や聞き取りは彼女たちから、つきっきりで教わったのよ。
和文の場合、ホレ(―・・― ― ―)で本文が始まり、上の暗号を送りラタ(・・・―・)で終わります。
「ラタ」は訂正符号でもあります。
※英文はBT(連続)で始め、AR(連続)で終わる。HH(連続)なら訂正符号です。連続というのはAとRをくっつけて打つこと。上のホレもラタも連続になってます。
友が島要塞には高射砲が備えられ、B-29襲来のおりは一矢報いるために撃つのですけれども、優に一万メートルを超える高さで侵入してくるのですから当たりはしません。
B-29の爆音は誰でも耳にこびりついていましたが、普通、コルセアやヘルキャットの爆音までは聞き分けられません。
でも和子はそれができました。
かなり遠くからでも聞き取れるんですね。
島の高いところに立って、耳を澄ませば・・・
「あ、ヘルキャット・・・数十機、来るよ。B-29も」
急いで、下に下りて電鍵にかじりついて、あらかじめ決めてある暗号表に基づいて打ちます。
彼女の早い対応で、大阪、神戸に空襲警報が早々に発せられ、いちはやく防空壕に人々は逃げ込み、幾度も一命を取り留めました。
レーダーが無い、あっても使い物にならない日本軍にとって和子の耳はなくてはならない存在でした。
聴覚のすぐれた盲人たちが、お国のためにと、和子のような任務に各地で就いていたそうです。
しかし、それも長くは続きませんでした。
友が島要塞も空襲で破壊され、和子と沢村さんは命からがら、逃げて櫓櫂舟で漂流寸前になりながら、やっと対岸の加太港に上陸できました。
隊長さんや末次さんの行方はわからないままでした。
和子のカバンにはあの愛用の電鍵が入っていました。
とっさに彼女が持ってきたのです。
電線は引きちぎられていましたが、壊れてはいません。
「持ってきちゃった」と和子
「へへ、あたしも」沢村さんもカバンから取り出しました。
「でも末次さんどうなったかな。無事でいてほしいな」
「大丈夫だよ、彼女は」
二人は、田倉崎灯台を目指して歩き出しました。
もう日は西に沈もうとしています。
燃えるような夕焼けでした。
そして、その年の夏、二発の原子爆弾が日本に投下され、全てが終わってしまいました。
この電鍵は、あたしにいろんなことを語ってくれましたよ。
そして、上条は母の旧姓です。
和子は母の伯母でした。
閑話休題・・・
モールス通信って、できた背景ってご存知ですか?
JARL(日本アマチュア無線連盟)ニュースの2012冬号の特集を引いてみます。
1832年に画家のサミュエル・モールスが欧州旅行の帰路に、ある客船を使ったんですね。
その豪華客船はシェリー号といい、ひんぱんに船長主催の晩餐会が開かれるんです。
その席で、彼は電磁石というものを見せられるんです。
これは大変な発明で、電磁気学の新しい幕開けの到来でした。
モールス氏の「アハ体験」がすごいんです。
電磁石を見ただけで、電気を入れれば鉄片が吸い付いて、切れば離れる、これで通信できるんじゃないかと閃(ひらめ)いたというのですから。
モールスは持っていたスケッチブックに構想を書き上げましたよ。
画家ですから、わけないことです。
「短点と長点で符号を表せば、信号を送れるな・・・」
そこまで考えたモールス、すごいと思いませんか?
いっぽうで、ホイートストンブリッジでおなじみのホイートストンらの考案による「指示電信機」がすでに発明されてはいましたが、彼らの電信機は受信信号を針の振れ(メーター)で示すもので実用には程遠いものでした。
早くも、あの航海から五年後には、モールスがニューヨーク大学で電信の実験をしてしまいます。
同時に特許も出願するのです。
この仕事の速さといったら・・・舌を巻きますね。一介の画家とはとても思えません。
モールス符号の原型は長点と短点の組み合わせですけど、このときは数字のみにしか符号が与えられておらず、英単語はそれら数字の組み合わせで表される暗号でした。
そこで、翌年、同大学の学生アルフレッド・ベイルが卒業してモールスの助手になり、今のモールス符号を完成させるのでした。
このときに気をつかったのが、アルファベットの各文字の使用頻度と符号の組み合わせでした。
当時の新聞社の協力を得て、頻度の高い文字は簡単な組み合わせで、低い文字は少々複雑にというふうに作ったのです。
よく使うA(・―)E(・)T(―)などは短く、あまり使わないZ(― ― ・・)は長くというふうに
モールスとベイルの二人が最初の公開通信実験(ニューヨーク~ボルチモア)で使った文は
「What hath God wrought」(神のなせる技なり)でしたよ。
モールスが電信術を考案したときから五十年余りを経て、1884年にグリエルモ・マルコーニが登場します。
彼が、イタリアの別荘でたった5mですが無線通信の実験に成功するんです。
ということはモールスらの実験は有線だったんですね。
ついに1901年、マルコーニは大西洋間を無線で通信することに成功します。
ゼロ戦の堀越二郎さんが生まれるのはその二年後なんですよ。
マルコーニは後にノーベル賞を受けますが、彼の商才が卓越しています。
無線通信が可能となるや、すぐに会社を設立し、権利を押さえ、独占体制を敷きます。
つまり、マルコーニ社以外の無線機とは交信させないわけ。
無線機販売には通信士をセットにして派遣し、自前の人材を保守とオペレーションに充てるという徹底ぶりです。
どこかマイクロソフト社のビル・ゲイツ氏に似てませんか?
今は昔となった電信通信のお話でした。
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