北の赤い星からの便り(2)
金日成総合大学は朝鮮民主主義人民共和国の名門かつトップレベルの最高学府として君臨している。
名前からして「金日成」である。
あたしは、そこの工学部物理化学教程の韓丘傭(ハン・グヨン)教授の下に編入学させられた。
韓先生は、中国の清華大学で化学を修められ、そこで博士号を取られたと経歴にはあった。
日本語も堪能で、実は京都大学に遊学された経験もあるそうだ。
「宇治の黄檗(おうばく)に五年ほどいましたよ」とは、先生の言葉だった。
京都大学の宇治キャンパスには化学の研究棟があるのだった。
「ヨコヤマさん、あなたは核物理には詳しいか?」
韓先生が日本語で問うたことがあった。
この国に来て間もないころだった。
「詳しいということはないですが、日本の学部レベルの知識ならあります」
「本国は、1985年に核拡散防止条約に加盟したがそれは表向きだ」と前置きして、
「核兵器開発こそ、本国を他国に認めさせる好手段なのだ」
と、力説しだしたのだった。
「ウラン235の濃縮技術で、我々も行き詰まっている」
先生の本棚には日本の書籍がずらりと並んでいて、そこに核物理や原子物理関係の書籍も並んでいた。
「先生、ウラン238が鉱石中99%以上で、その中でウラン235はごくわずかです。そしてもっとも難題なのは、原子量差がたったの3ほどしか軽くない」
「そうだ。遠心分離を試したが思うように濃縮できない」
「そうでしょう。日本ではすでに太平洋戦争中に仁科博士などが遠心分離で挑戦してましたが遠心分離機の精度の問題で、同じ壁に突き当たっていました」
「回転を上げると分離精度は向上するのだが、機械が持たない。軸受や軸の同芯度が我が国では出せていない」
そう、悩みを打ち明けてくださった。
「先生、旋盤などの工作機械の回転部分を流用されてはいかがですか?」
「やってみた。我が国の旋盤は中国製で、どうも精度が悪いのですよ」
「日本製がほしいところですね。ココム違反になりますが」
「ヤマザキマザックのものが良いとは聞いているが」
「あたしはそこまで詳しく知りませんが、遠心分離機なら、日本の専門メーカーもあります。しかし、ココムに引っかかりますから、どうでしょう、パキスタンかイラン経由で導入するということは?」
「政府に打診はしてみるがね。ほかの濃縮法としてガス拡散法について、ヨコヤマさんには調べてもらおうか」
「はぁ…」
あたしは、神経ガスの合成のテーマをもらっていたのに、ウランの研究をせねばならないとは…
翌日から六フッ化ウランを原料にしたウラン濃縮法の文献を当たることになった。
金日成国家主席の体調が悪いらしい。
後継者問題で、なにやら中央が落ち着かない様子だった。
あたしは大同江(テドンガン)の滔々とした流れを眺めていた。
この国の灰色のイメージは変わらないが、大同江の景色は原色で唯一、色彩の豊かな感じがした。
親と祖国を裏切ったあたしの行く末は、あの水のように不透明なのだ。