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ゲーリングに勲章を投げつけた男

ルフト・バッフェ(ドイツ空軍)の指揮官であり、自らも操縦桿を握って撃墜王(エースパイロット)の名をほしいままにした男、アドルフ・ガーランド(1912~1996)は、第一次世界大戦がドイツ帝国の敗北によって終結したころ、ギムナジウム(日本の中高一貫校に当たる)に入学したてだった。
そんな少年に、負けはしたものの連合国を恐れさせたドイツ空軍の雄姿は空へ憧れを抱かせた。
「鉄十字章」や「リヒトホーフェン」の名はガーランド少年の心に深く刻まれたに違いない。※マンフレート・フォン・リヒトホーフェン(1892~1918)ドイツの第一次世界大戦のエースパイロット。80機以上を撃墜した記録を持つ)

裕福な家庭に育ったアドルフは、十代後半にはグライダーの操縦に夢中になり、ギムナジウム卒業と同時にルフトハンザ航空学校に入学を果たしたのである。
先の大戦で敗けたドイツは、ヴェルサイユ条約によって、航空機の生産も、パイロットの養成も禁じられていた。
しかし民間のルフトハンザ航空会社をカムフラージュに、軍はパイロットを育てようとしていたのである。
ドイツであからさまな養成教育を行えない事情から、アドルフはイタリアで飛行機操縦の手ほどきを受けたらしい。
当時、イタリアは航空技術の先端を走っていた。
そしてドイツもオランダに移転させたフォッカー社で密かに戦闘機を作らせていたのである。
フォッカー社は撃墜王リヒトホーフェンの乗機「フォッカーDr.Ⅰ(レッドバロン)」の設計製作会社として有名だった。

第一次世界大戦でロシアを破ったヒンデンブルク元帥は戦後、ドイツの大統領にまで昇りつめ、世界征服を虎視眈々と狙っていた。
共和制を敷いて政権を樹立したヒンデンブルクだったが、すでに高齢で、病気がちであったことから、気鋭の青年アドルフ・ヒトラーに後継を頼むことになる。
こうして恐ろしいナチス体制が整いつつあった。
ヒトラーのヴェルサイユ条約破棄が、かつてのヴァイマル国軍の再編成となり、ドイツ国防軍として新たに強化されたのだった。
そうしたさなかにガーランドは晴れて軍人となり、少尉任官となった。
憧れの戦闘航空団、その名も「リヒトホーフェン団」に入団を果たしたのである。
ところが訓練中に彼は墜落事故を起こし、命はとりとめたが顔面を強打し、鼻骨を折る重傷を負ってしまう。その時から片方の視力もかなり落ちてしまったという。
このままでは、パイロットはおろか軍人としても働けない状況に陥ってしまうことになる。
ガーランドは強い意志と空への欲望で上官に食い下がり、パイロットの座に居続けたのである。
上官の想いもあり、また彼は実際に優秀なパイロットであったから、たとい片目が見えなくとも、すばらしい戦績を上げてくれるものと期待されたのであった。
視力テストは、視力表を暗記して突破したというエピソードも残している。

第二次世界大戦勃発前に、ドイツはスペインの内戦に加担した。
スペインのフランコ政権に兵力を貸したのである(義勇軍)。
その義勇軍の空軍部隊「コンドル軍団」にガーランドはパイロットとして活躍した。
ガーランドは複葉機のハインケルHe51で地上作戦を支援した。
スペインの内戦では、まだ航空機同士の空中戦はなく、地上部隊と連携していくのが任務だった。
そして、ついにナチスドイツのポーランド侵攻が起こる(1939.9月)。
第二次世界大戦の勃発である。
ガーランドはこのポーランド侵攻作戦に従事する。
やはり任務は地上攻撃が主で、ヘンシェルHs123という複葉機が彼の乗機だった。まだ新鋭のメッサーシュミットは配備されていなかったのだろうか?
確か、メッサーシュミットBf109はスペイン内戦で使用されたと私は戦記などで読んだことがあったが、少なくともこの時まで、ガーランドはまだメッサーシュミットには出会えていなかったようだ。
※メッサーシュミットBf-109は「コンドル軍団」に三機だけ試用されたらしい。

ガーランドに初めてメッサーシュミットBf-109Eを与えられたのは、1940年2月だった。その年の5月、ドイツ軍はパリに侵攻し、花の都パリはナチスの手に落ちたのだった。
ガーランドもフランスはリエージュ付近で会敵し、初の空戦で三機の敵機を撃墜し、空戦の初陣を飾る。
これからあと、彼はメッサーシュミットを愛機としてエースパイロットとして育っていくのである。
同年7月にバトル・オブ・ブリテンとして名高い、ドイツとイギリスの戦闘機同士の戦いがあった。
ドイツはメッサーシュミット、イギリスはスピットファイアという名機を投じて、騎士道精神で戦ったのである。
しかし、空戦性能において優る「楕円翼」のスピットファイアと、最新鋭の電探(レーダー)網によってドイツ空軍は押され気味であった。
翌年6月にガーランドはスピットファイアに撃墜されてしまう。
幸い、落とされた場所が、フランス側のブローニュであり、徒歩で基地に帰還し、再び空に上がるのである。
しかし、またまた、撃墜されてしまう。それでもすでに70機もの英軍機を落としていたガーランドは、負傷しつつも「柏葉剣付騎士鉄十字章(かしわば・けんつき・きし・てつじゅうじしょう)」(山本五十六も受章)を受章している。

彼が、ヘルマン・ゲーリング空軍元帥から「どんな戦闘機があったら貴様はイギリスに勝てるんや?」と詰め寄られ、言うに事を欠いて「スピットファイアがあったら勝てるかもしれません」とのたまったという。
ある日、ガーランドの盟友、ヴェルナー・メルダース戦闘航空団司令が戦死した。
ゲーリングの命令でガーランドがメルダースの後を継ぐことになったが「ダイヤモンド剣付き柏葉騎士鉄十字章」の授与とともに、ガーランドは戦闘機に乗ることを禁じられ指揮官として地上で任務に就くことになった。
このころからドイツは連合軍から防戦一方を強いられるのだった。
ボーイングB-17がドイツを絨毯爆撃してきたのである。
ガーランドの部隊は防空戦に躍り出るも、とても応戦しきれない。
中には「体当たり」でB-17を落とすパイロットも出る始末で、ガーランドは禁じたが、若者たちの気持ちを抑えることはできなかった。
ガーランドも密かにフォッケウルフFw190で空に上がることもあった。
そして「体当たりなど、技術のないパイロットがすることだ」と、命を無駄にしようとする若いパイロットをいさめた。
やっとのことで最新鋭のジェット戦闘機「Me262(シュバルベ:つばめ)」がガーランドの部隊に配備される。
これなら、B-17など止まっている蠅のようなものだと、自らテスト飛行を終えたガーランドをして言わしめた。
Me262は戦闘機として抜群の性能を発揮したものの、ナチス首脳陣、ことにヒトラー総統はこの機を「爆撃機に改装して運用すべき」と持論を展開し、ガーランド大佐を失望させた。
大佐の直属の上司であるゲーリング元帥も総統と同じ考えであり、ガーランドと反目し合う。
アラド社がジェット爆撃機をすでに開発しているのを知っていたガーランドは、Me262が防空戦闘機としての任務を全うさせることが、連合国軍に押され気味のドイツ軍が捲土重来(けんどちょうらい)を期すために大切だと力説したのだった。

1942年の12月にガーランドは空軍少将に昇格し、44年の晩秋には中将にまで昇るも、ゲーリング元帥とはMe262運用の件で対立が深まるばかりだった。

あるとき、ゲーリング元帥がガーランドに「貴様の戦闘機隊員は無能の集まりだな」と苦言を呈され、ガーランドはキレて首に付けていた「ダイヤモンド剣付き柏葉騎士団鉄十字章」を引きちぎって元帥の机に叩き付け「もうこんなもんは、いらん!」と捨て台詞を残して去ったという。

ついに、45年の1月にガーランド中将は、ジェット戦闘機隊総監の職を解かれてしまう。

この更迭劇にガーランドの部下たちは不満が爆発し、ゲーリング元帥の弾劾を企図するのだった。
そのころ、もはやナチスも進退が極まっていた。
ヒトラー総統は愛人とともに自身の身の安全だけを考え、疑心暗鬼に苛(さいな)まれた小悪党になり下がり、彼の周りから心ある者は一人、また一人と去っていった。

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ナチス終焉間近の4月、ガーランドはMe262のコクピットに収まっていた。
もうだれも彼を止めることはできない。
ガーランドのMe262「シュバルベ」には、あの、スペイン内戦での初陣から愛機に必ず描かれていたミッキーマウスのマーキングがされていただろうか?
ツバメのごとく、蒼空に舞い上がったガーランドのMe262は、米軍のB-26「マローダー」を容易(たやす)く屠(ほふ)った。
しかし、リパブリックP-47「サンダーボルト」の迎撃に遭い被弾、墜落してしまう。

負傷したガーランドはバイエルンの病院に収容されたが、間もなく進駐してきた連合軍によって逮捕され、戦犯として裁かれることになる。
しかし、彼がナチスに加担せずに、終始ゲーリング元帥らと対立していたこと、パイロットとしての類(たぐい)まれなる資質を鑑(かんが)みて、5年間の収容ののち釈放されそのままイギリス空軍の教官に取り立てられた。
その後、ガーランドはアルゼンチン空軍の教官を務めたり、航空コンサルタントを興したり、晩年まで飛行機に関係し、83歳の生涯を閉じたとされている。
二度の離婚を経験し、三度目の奥方は彼の副操縦士を務めた女性パイロットだったという。

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