見出し画像

尚子と典子

また、校庭に赤い旗が立った。
「光化学スモッグ警報発令」の赤旗だった。
今年の6月になってからもう四回目か五回目だと思う。
これでは体育も体育館でやることになるのだろう。
業間体操(二時限目と三時限目の休み時間に全校生徒が校庭に出てする簡単な体操)も教室だ。
「先生が来はったで」とクラスの男子の誰かが言った。
私も窓際から席に戻る。
「転校生が来るんやて」と、ひそひそ声も聞こえた。
私も、そのうわさは聞いていた。
ほどなくチャイムが鳴って、同時に担任の中村操先生がおかっぱの女の子をともなって教室に入ってきた。
「はい、みんな、おはようございます」「おはようございます!」
黒板の前で、いつも通り先生が朝のあいさつを私たちにうながし、私たちもてんでに応える。
「きょうは、新しいお友達がこのクラスに入ることになりました。さ、伊藤さん、こちらに来て、あいさつなさい」
おかっぱの女の子は紺のブレザーにタータンチェックのスカート、白いハイソックスという姿で入学式にでも来たようだった。
「あたしの名前は伊藤典子(のりこ)です。兵庫県から引っ越してきました」
といってぺこりとお辞儀をした。
学級委員長の角田(すみだ)君が代表して起立し「よろしくお願いいたします」と言う。
私たちは拍手で迎えた。
先生が、黒板に伊藤さんの名前を漢字で書いて、フリガナを振った。
「てん子って書いてのり子って読むん?」とは、クラスいちのお調子者でスケベな勝田君(かっちゃん)の声。みんながどっと笑う。伊藤さんも困った顔だったが、すかさず、
「あたし、前の学校で、てん子ってあだなをつけられてました」
また笑いが起こった。
「じゃあさ、ここでも、てん子って呼んでええか?」ガキ大将の林君が大声で言ったから、伊藤さんはおじけて、肩をすくめた。そして「うん」と頭を縦に振った。
その笑顔が、私にも笑顔を誘った。
「じゃ、みんな伊藤さんを仲間に入れてあげてね」と中村先生が言い、みんなで「はぁい」と返した。
「伊藤さんの席は、横山さんの隣にとりあえずしておきましょう」
私は名前を呼ばれたのでびっくりしてしまった。
私の隣の窓際に空きがあった。ここは長く休んでいる神原正君の席だった。
神原君は生まれつき心臓が悪く、その手術のために春休みからずっと新学期になっても入院したままになっているのだった。
先生に背中を押されて伊藤さんが私のそばにやってきたので、私も笑顔で立ち上がって「どうぞ」とイスを引いた。
伊藤さんを近くで見ると、背は私と同じくらいで、そばかすの多い愛くるしい笑顔で、私はすぐに仲良くなれる気がした。

一時間目は「国語」で、伊藤さんは何も持ってきていないようだったので、机をくっつけて教科書を二人の間において読むことにした。
「ありがと、えっと」「横山尚子(なおこ)って言うねん。あたし」「じゃ、なおこちゃん」「なおぼんでいいよ。みんなもそう呼んでるし」「なおぼん?なんかかわいいね」「ふふ、伊藤さんは、てん子ちゃんでええの?のりちゃんとかやのうて」「どっちでもええよ」「ほなら、のりちゃんって呼ばしてもらお」「うん」
私は、名前はちゃんと呼ばないと失礼だと思っていたから、「のりこ」なんだから「のりちゃん」と呼ぶことに決めた。

のりちゃんと私は急速に仲良くなった。
お父さんが「公務員」なんで転勤が多いのだそうだ。
私は「公務員」と言えば中村先生のような学校の先生とか、近所の市役所の水道局に勤めているおっちゃんのことを思い浮かべたけれど、のりちゃんのお父さんはちょっと違うようだった。
「おやかた日の丸ってやつやね」
「なんやのそれ」と典子が怪訝そうな顔で私を見る。
「あたしのお父ちゃんが言うてたんやけど、公務員は国に雇われてるから、会社みたいにつぶれたり、クビにならへんから安心やっていうことらしいねん」
「うまいこと言わはるね、なおぼんのお父さん」
「うちのお父ちゃんなんか、いつおまんまの食い上げになるかわからん言うて、昼間っからお酒飲んでるときもあるし」
「あははは」
「そんなに笑わんでもええやん」
「ごめん、ごめん。ドリフのコントみたいなお父さんやね」
「そら、言えてる」私も笑った。

典子は、だからもう二度目の転校を経験しているのだそうだ。
小学校二年生の春に滋賀から神戸に、そして六年生になってここ大阪の門真に引っ越してきたのだった。
典子の話では、なんでも、お父さんが「法務省の役人」だそうだ。詳しいことはわからないし、私も訊かなかった。
訊いたところで、小学生の私に「法務省」がどんな役所なのかもわからなかったからだ。

土曜日は「半ドン」なので、いったん家に帰って、昼食をとってからもう一度学校にクラスで集まることになっていた。
合唱コンクールの練習のためだった。
梅雨入り宣言がなかなか出ないので、六月というのに日照り続きで、光化学スモッグの注意報や警報が毎日のように発令されていた。
月末の日曜日に市の会館で予選会があるので、合唱の練習にも熱が入る。
課題は「空がこんなに青いとは」で、公害による四日市ぜんそくのために、そこの小学生たちが歌いたいのに歌えなくなるという、なんともやりきれない映画の中で歌われていたものだ。

知らなかったよ
空がこんなに青いとは
手をつないで歩いていって
みんなであおいだ空
ほんとに青い空
空は教えてくれた
大きい心を持つように
友だちの手をはなさぬように

(作詞:岩谷時子、作曲:野田暉行)

私たちは映画を体育館で見せられて、それから課題曲に臨んだので、感情を込めやすかった。
自然に私はとなりの典子の手を握って「友だちの手をはなさぬように」と歌い、見つめ合った。
典子も握り返してくれたのがうれしかった。

あれから五十年近く経ってしまった。
典子は私と同じ中学に上がったものの、クラスは離れ離れになってしまい、そのうちに、今度は京都の山科に引っ越してしまった。
その時に知ったのは、典子のお父さんの仕事が「刑務官」という役人だったということだ。

そばかすだらけの屈託のない笑顔の可愛かった典子は、今どこで何をしているのだろうか?
お別れをしたときの山科の住所を知っているが、もはやそこにはいないだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?