ウカの門 黒牙瑠編

 夜の公園で、ひとりの人物が、腹筋をしていた。
 鋭く、苦しそうな息づかいが、深夜の静寂のなか響いている。
 腹筋の主は、美しい――少年、であろうか。
 一見して性別のわからない、不思議な顔立ちをしていた。
 さらりとした金髪。あばた一つない、なめらかな肌。
 街灯の乏しい明かりの下でさえ、息を呑むような美貌である。
 全身に、華美な貴族風の衣装をまとっている。
 運動にはいかにも不向きな格好だ。
 しかし、柳眉を苦しそうにひそめながらも、端正な顔には一粒の汗も浮かんでいない。
 もしこのとき、近づいてよく見る者があれば、この人形のような美童が、本当に人形であることに気付いて仰天したに違いない。
 肌の光沢は人造物の質感であり、手首も指も球体関節で形作られている。
 届木ウカ――
 人間のように見えて、そうではない。
 その正体は、不老不死のVTuberである。
 齢一〇〇〇歳を超えるバーチャルドールが、夜の公園でひとり鍛錬に精を出しているのであった。
 と――
 絶え間なく続くかに見えた腹筋運動が、ふと止んだ。
「そこで見ているのは誰?」
 届木ウカが鋭く言った。
 青い、宝石のような目が、広場を取り巻く木立に向けられている。
 視線の先で、のっそりと動きが生じた。
 木立の中から街灯の下に姿を現したのは、女である。
 浅黒い肌をしていた。
 ピンクのカーディガンと、白い襟のシャツの胸元を大きく開けて、その黒さを見せつけるようにしている。
 癖のある長い金髪が、肌の色によく映えていた。
 黒ギャルである。
 大きな手の指先が、鮮やかなネイルで彩られている。いっぽう、赤いギンガムチェックのスカートから伸びる二本の脚は、筋肉で引き締まっていた。
 ただ黒いだけでなく、強い。
 誰の目にもそれがわかるような、みごとな黒ギャルであった。
「サキちゃん」
 届木ウカが、名を呼んだ。
 皇牙サキ――
 ギャルの名前である。
 皇牙サキが、歯を見せて笑った。
 芝生の上を歩み寄ってくる。豪放そうな身なりに反して、足の運びが柔らかい。
「ウカさま」
「声をかけてくれればよかったのに」
「ウカさまが、何をやってるのかわからなくてね」
「見ての通りだよ」
「関節の耐久テストとか?」
「腹筋だよォ!」
「へえ。なんで腹筋してるの?」
 皇牙サキの問いに、届木ウカは苦い顔でつぶやいた。
「馬だよ」
「馬?」
「馬が、逃げてしまって」
「ふうん」
 皇牙サキがうなずいた。
 よくわからぬが、あまり重要ではなさそうだ。そう察したような相槌であった。

 実際、ことのきっかけはごく単純であった。
 馬である。
 馬が、逃げたのである。
 届木ウカは、不死の人形である。森の中の屋敷に住まい、迷い込んだ者を剥製にして暮らしてきた。人里に赴くときは、つややかな毛並みの馬に引かせた二頭立ての馬車に乗る。風を巻いて疾駆する届木ウカの馬車は、長きにわたって近隣の人々に恐れられ、敬われてきた。
 その馬が、逃げた。
 理由は、労働条件である。
 労働の対価として、じゅうぶんな飼い葉を、支払っていなかった。
 以前から不満をためていた馬たちが、ついに決起し、厩舎の壁を蹴破って、蹄の音も高らかに逃げ出したのである。
 馬たちの行方はようとして知れぬ。
 主人にならい、VTuberになったのだという者もいる。彗星のごとく現れた、馬の名を持つ古株の新人が、そのなれの果てであるとも。
 確かなことは誰にもわからぬ。
 事実として言えるのは、届木ウカが交通手段を失ったということである。

 届木ウカは、電車を使うことになった。
 朝の通勤電車は、満員である。
 プラットフォームに滑り込んできた電車を見て、届木ウカは愕然とした。
 なんだ、これは。
 隅から隅まで、肉がみっしりと詰まった、鉄の棺桶じゃないか。
 冗談じゃない。こんなものには、乗らない。
 憤然ときびすを返そうとしたが、もう遅かった。
 押し寄せる通勤客の波が、届木ウカを容赦なく車内へと叩き込んだ。
 悲鳴一つあげられないほど強く押し潰されたまま、届木ウカは鉄の棺桶で運ばれていった。

「ははあ、それで、満員電車に耐えられる体力をつけようと――」
 届木ウカが重苦しくうなずく。
「それが、理由のひとつ」
「ひとつ、とは――」
 皇牙サキが、訝しげに眉を上げる。
「まだ、理由があるのかい」
「あるんだ」
「どんな」
「首がね――」
 もうひとつの理由は、VR機器に由来する。
 Viveである。
 VR機器のViveが、重すぎる――
 そのせいで、最近首が本当にアレなのである。
 バーチャルアイドルにとって、VR機器は切っても切れぬもの。装着するたびに首をいわしていては、アイドル活動にも支障をきたす。
 だから届木ウカは、体力をつけようと思ったのである。
 体力というか、筋力をだ。
 バーチャルアイドルであるための、筋力を。
 腹筋を始めた理由は、何よりもまず、それであった。

「バーチャルアイドルか――」
 皇牙サキがつぶやいた。
「笑うかい」
 届木ウカの声に、張り詰めたものがあった。
 3Dモデル作成、Unityコーディング、作詞作曲、シナリオライティング、実写合成、そして歌唱、小説――
 さまざまな技術を探求し、貪欲に身につけてきたこの人形は、「アイドルとしてある」という目標に自身を近付けるために、すさまじい情熱を燃やしているのだ。
「笑いやしないさ」
 と言いながら、皇牙サキの顔には笑みが浮かんでいる。
 人を嘲る笑いではない。どこか温かいものを感じさせる笑顔であった。
「そういうことなら、ウチが手伝おうか」
「手伝う?」
「要は強くなりたいんだろ、ウカ様は」
「強く――」
 皇牙サキが念を押すように言った。
「ウカ様が欲しいのは、バーチャルアイドルとしての”強さ”だ、違うかい……」
 届木ウカは、少しの間黙り込んでいた。
 思いもよらないことを言われた――そういう沈黙だった。
 やがて顔を上げると、皇牙サキの目を見返した。
「そうかも、しれない」
「そうなんだよ」
 皇牙サキが、力強く肯定した。
「そうなのかな」
「うん。そうなんだ」
 二人の間に、二人だけがわかる合意が生まれたように、届木ウカと皇牙サキがうなずきあった。
「じゃ、さっそくやろうか――」
「……やる?」
「ウチがウカ様を鍛えてあげるからさ。こういうのは、一人でやるより、二人でやるほうがいいんだ」
 胸を張る皇牙サキを見上げて、届木ウカが不安そうな顔をした。
 二人の身長差は、大人と子供というほどではないが、かなりある。
 体格差も相まって、並ぶとフィジカルの差は明らかだ。
「申し出は嬉しいけれど、僕がもう少し体力をつけてからの方がいいんじゃないかな」
 及び腰になった届木ウカを見下ろして、皇牙サキが悪戯っぽく言った。
「そんなこと言ってていいのかい――」
「え?」
「ここに来る前、聞いたんだ。ウカ様以外にもうひとり、腹筋を始めたVTuberがいるって」
「わからないな。なんの話だい」
「そのVTuberは、埼玉にいるらしい」
「ふうん?」
「春日部にね――」
 届木ウカの目が、大きく見開かれた。
「春日部つくし!?」
「うん。ウカ様には因縁のある名前だと思ったけど、違ったかな」
 そそのかすような口調で、皇牙サキが囁いた。
「春日部つくしは、やる気だよ」
「む――」
「いいのかな、後れを取って」
「む、む――」
「今なら、ウチが鍛えてあげられるよ。ウカ様にその気があるならね」
 届木ウカが、観念したようにため息をついた。
「――わかった。よろしくお願いします、サキちゃん」
「オッケー」
 皇牙サキが破顔して言った。
「じゃ、お手本見せるから、ウチの真似してみて」
 皇牙サキが、左の半身になった。
 右足を大きく後ろに引き、そのまま腰を落としていく。
 低く、低く、地を這うほどに重心が落ちる。構えは半身のまま、小揺るぎもしない。とてつもない体幹の強さであった。
 さらに、前に向かって両拳を掲げ、皇牙サキは静止した。
「これがトリケラトプス拳だよ。やってみて」
「――ハードル高すぎるよぉ!!」
 夜の公園に、届木ウカのへなへなボイスが響き渡った。



※補足
 バーチャルワオキツネザルのワオだよー
 これは以前ウカ様が腹筋配信したとき 夢枕獏文体でウカ様とサキぽよが腹筋対決する話を思いついていつの間にかできてたSS たらたら書いてたら完全に出す時期を逃してお蔵入りしてたんだ ネタが若干古いのはそのせい 腹筋配信があったの2019年の7月だからね
 口調の再現と夢枕文体の再現がコンフリクトしてガチャガチャしてしまった だから文体模写的にはちょっと半端なんだけど 皇牙サキさんが5月いっぱいで引退すると聞いて今しかチャンスがないと思って公開することにしたよ
 ちょうど春日部つくしさんが腹筋配信を始めてたのでオチに使わせてもらっちゃった いきなりごめんね
 以前ウカ様とコラボしたときにウカ様の小説書く約束してたんだけど これで果たせたかな(これで??)
 皇牙サキさん 構ってくれてありがとうね 元気で
 ワオでした
 またねー

 以下、文脈