見出し画像

現代美術の先にあるアートの可能性

少し前の話になりますが、2019年9月25日のクローズアップ現代+で、現代アートについて取り上げました。放送は、過熱する現代アート市場を概観し、その先を考えるものでした。現代美術の定義は諸説ありますが、これまで積み上げてきた文化や概念にとらわれず、時には打ち壊したり、異なるアプローチから捉える中で創造された、多元的な価値表現であるともいえます。

自由かつ多様な表現が、所有を競う資本主義市場と結びつくなかが形成されたのが、今のアート市場です。そこに日本の存在感は極めて乏しいというのが番組の指摘です。それでは存在感のある米国や中国の真似をすれば良いのでしょうか?確かに「引っ越した時に、壁をアートで飾る」という、米国における人々の生活とアートとの近い距離感は見習うべき点かもしれません。一方で高額アートを支える市場の構造そのものが異なることに注意しなければいけない点です。現在高騰するアート市場を支えるのは、総資産50億以上の超富裕層と言われる人々ですが、米中に比べ、日本にはこの層がほとんど存在しません(総資産1億以上の富裕層はかなりの数存在します)。従って所有を競うなかで価値を高めるというスタイルを無理に真似することには、限界があります。

社会を駆動する資源が、所有財である石油から、共有財の側面をもつデータにシフトする中で、社会を捉える視点も変化してきました。以前からノーベル経済学者のアマルティア・センやスティグリッツは、所有で豊かさを図るGDPは時代遅れだと指摘していたのですが、その様な認識が高まってきたのです。彼らが提案したWellbeingという視点は、社会をデザインするための手がかりになる考え方だといえるでしょう。一例ですが、共有の中で考える世界と人々の新しい豊かさ、という視点はアートに求められる新しい役割かもしれません。では具体的にはそれはどのようなものか?日本には、その先駆けとなる素晴らしいアートが既にあります。番組でもご紹介した豊島美術館について、お話したいと思います。

まず最初に2010年に開館し、既に世界的な評価を得ている「豊島美術館」について、何故今更書くのか?理由の1つは2025年大阪万博に関連したいくつかの仕事に取り組む中で再確認した、「いのち輝く未来社会のデザイン」というテーマに通じる作品であることです。

豊島美術館は、美術館といってもただ1つの作品を展示し、アートと建築、そして自然の融合をコンセプトにしています。まずはホームページの文言を引用した一般的な説明からお話します。美術館は建築家・西沢立衛さんによる設計です。豊島は、水不足に苦しむ周辺地域の中で、水資源に恵まれた文字通り「豊かな」島でした。しかし、1975年から十数年間、産業廃棄物の不法投棄に見舞われ、荒廃することになります。そのような背景の中、休耕田となっていた棚田を地域の人々と再生させ、その一角に、風景と溶け込むように建築されたのが「豊島美術館」です。水滴を模した建築は、地域の再生を象徴するイメージです。また天井に大きく空いた開口部は常時開放されており、周囲の風や音、光を取り込みます。地域と一体となった建築は、時間や季節の流れの中で、さまざまな情景を映し出します。

画像1

展示される作品はアーティスト・内藤礼さんによる「母型」です。母型では一日を通して、いたるところから水が湧き出して、湧き出した水滴が時に集まり、時に分かれ「泉」となります。湧き出す水は豊島のルーツと結びつくものであり、また一方で地上の生の喜びという普遍的なイメージにつながるものです。

ただ私自身が「豊島美術館」を素晴らしいと感じるのは上記の点だけではありません。二人のアーティストの共創によって生じたイメージもまた、抜群に素晴らしいのです。(アーティスト自身の解説では、どうしても御本人の作品回りの解説が軸となります。また10年の時を経て生まれてきた解釈も、どちらかに寄ったものが大多数です。)以下はあくまでも、私個人の解釈ですし、おそらく正解というものはないと思います。

母型から湧き出す水滴は、驚くほど儚く、小さなものです。吹き抜ける風に揺られながら、一つ一つが繊細で、多様な軌跡を描き、時に集い、分かれていく様からは、いのちの輝きの美しさを感じることができます。

画像2

内藤さんが描く、繊細で儚い輝きを包み込むのが、西沢さんによるクールかつ超現実的な空間です。柱が1つも存在しない、どこかであり、どこでもないような空間は、時間の概念をもまた曖昧にします。水滴が生まれて集う一連の動きは、”生命が誕生する瞬間の出来事なのか”、”人が生まれそして終わる一生という時間なのか”、”あるいは生態系が生まれ自然に帰っていく悠久の流れなのか”、そういった様々な時間のスケールの中での、いのちと世界の体感につながります。

画像4

この作品のもう一つ卓越したところは、こうした体験がそこにいる人々と共有される点です。内省的な思考を喚起する作品は、既に世界に数多く存在します。ともに鑑賞する人々を舞台装置に組み込んで、鑑賞体験をデザインする、というアプローチは、オラファー・エリアソンの「ウェザー・プロジェクト」(これも素晴らしい作品です)でも用いられている手法です。豊島美術館では、入場制限をかけて人数を絞り、また天井を低く抑えてあえて窮屈にすることで、そこにいる人々が、互いを群衆ではなく、ひとりひとりの”人”として認識しながら作品を体験するのです。

画像4

いのちと世界を、ある種の万能感の中で”閉じて”感じるのではなく、そこにいる人達と共有しながら”開いて”感じる。いのち輝く世界の中で、我々はどのようにつながり、互いの1歩を踏み出すのか… 地域の物語と普遍的な問いを重ねて、人々と世界をつなげる、アートの力を深く感じました。

私の乏しい人生経験ですが、世界の歴代芸術作品と比較しても、最高峰の1つだと感じています。一方で拙い言葉を尽くしましたが、この作品の魅力を感じてもらうには現地に行くしかありません。写真撮影も禁止で、インスタ映えと対局にある、この作品を映像や写真で感じることには限界があります。こうしたコミュニケーションを通して、皆様のアート体験の一助になれば幸いですし、私も学んでいければと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?