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"家族の風景"を考える――キッチンにハイライトとウィスキーグラスがあるって、どうよ。

キッチンにはハイライトとウィスキーグラス、どこにでもあるような家族の風景

という一節を聞いたことがある人は少なくないと思います。

そう、家族の風景/ハナレグミです。

私は、対バン相手だったシンガーソングライターがライブでカバーしていたのを聞いて、初めてこの曲を知りました。
その際、細かい所は忘れましたが、「家族の、心あたたまる、そんな風景を思い描いて」的な曲紹介から歌いだしたことをよく覚えています。
で、曲を聴きながら、キッチンにハイライトとウィスキーグラスが置いてある家庭って、そんな心あたたまるような素晴らしいものかね?と思い、友達のようでいて他人のように遠い"愛しい"距離、ってよそよそしいんだけど、と思ったものです。

それからずっと引っかかり続けているこの曲、家族の風景。
少しだけ歌詞について妄想してみたいと思います。

注意!

以下の記事はあくまで妄想です。

ハイライトとウィスキーは、ハナレグミの永積崇さんのお父様のものだったようです。

以上の記事に本人のお話が掲載されていました。

というわけで、以下の記事は的外れな妄想となりました。


キッチンにはハイライトとウィスキーグラス

まずハイライトについて。

JTによれば、1960年に発売されて爆発的にヒットし、フィルター付きたばこをスタンダードに押し上げたのがこのハイライトのようです。
高度経済成長を象徴するタバコといえるかもしれません。
ハナレグミは1974年生まれなので、ご両親が吸っていたことがうかがえます。

では、ご両親のどちらがハイライトを吸っていたのか。
ヒントはキッチンに置いてある、という点。

ハナレグミのご両親を1950年生まれと仮定すれば、結婚は1972年ごろ、ということになります(国立社会保障・人口問題研究所内閣府のHPから計算)。
「もはや戦後ではない」といわれたのが1956年。
ハナレグミのご両親は高度経済成長のまっただ中を歩んできたといえます。
そんな時代の既婚男性が、果たしてキッチンに立つでしょうか?
さらに言えば、"フライパン・マザー"というように、キッチンを代表するものであるフライパンで母を形容しています。
時代背景からしても、"フライパン・マザー"という一節からしても、ハナレグミ家におけるキッチンは"女の城"だったと考えられます。

そこにハイライトがあるとすれば、母親がキッチンで吸っていたと考える方が自然でしょう。

そんなハイライトと、ウィスキーグラスがセットで置いてあるキッチン。
ハナレグミの母は、ハイライトを吸いながらウィスキーを飲む、なかなかハードボイルドな方だったのではないでしょうか。

ここで、女性の飲酒・喫煙率をみてみたいと思います。
キッチンにあるタバコがハイライトである、と銘柄まで認識できているという点から、"家族の風景"はハナレグミが15歳くらいの風景であると仮定し、1989年の国民健康・栄養調査をみてみます。

喫煙状況
飲酒状況

当時タバコを吸っていた女性は8.0%ですね。
飲酒については10.1%です。
つまり、飲酒・喫煙、両方の習慣のある女性は単純計算で100人に1人もいないということになります。
ハナレグミの母は結構レアな存在であるといえます。

以上をまとめると、ハナレグミの母は、100人に1人いるかいないかくらいのハイライトとウィスキーをたしなむハードボイルな女性だったといえます。
そんなレアな母がいるめずらしい家族を、どこにでもあると表現しているわけです。


友達のようでいて他人のように遠い愛しい距離

ここまでで、ハイライトとウィスキーグラスの主がハナレグミの母親だった、と結論付けました。
ハイライトとウィスキーグラスの主が母親だとすれば、父親についてこの"家族の風景"で歌われているのはすべて母親のことで、父親は全く出てこない、ということになります。

家族の風景の中に父が存在せず、描写はすべて母。
そんな家族を"友達のようでいて他人のように遠い愛しい距離"と歌っています。
一度、"愛しい"という形容詞から離れてこの距離を考えてみると、一抹のよそよそしさを覚えます。

この"よそよそしさ"説明するために(古典的ではありますが)、"親密さ"を表すためのボガーダスの社会的距離尺度から考えてみます。
ボガーダスは、社会的距離は次のような質問項目から量的に(アンケートによって)計算することができると考えました(Bogardus 1933)。

1 婚姻によって親戚関係になってもよい、
2 親友として社交クラブに参加してもよい、
3 隣人として近所に住んでもよい、
4 同僚として職場に来てもよい、
5 市民として自分の国に来てもよい、
6 訪問者としてのみ来てもよい、
7 自分の国から出ていってほしい。

という7つで、距離の遠さを数値的に7段階で表すことができます。
1が最も距離が近い=親密で、7が最も距離が遠い=疎遠であるということになります。

この中で、"家族"に当たる距離は最も近い1で、"友達"は2~4程度の距離です。
"他人"は5~6程度でしょうか。
7はいわば"敵"ですね。
社会学という領域では、家族の距離が最も近いものだとされているわけです。

これを踏まえた上で、改めて考えみましょう。

友達のようでいて(2~4)他人のように遠い(5~6)愛しい距離。

彼はXのようでいてYだ、と人が語るとき、彼の本質を示すのはYの方です。
つまり、ハナレグミにとって家族とは、友達関係(2~4)のようにふるまうことはあれど、他人(5~6)という最も距離の遠い存在なわけです。


結論:"どこにでもある""愛しい"家族

改めてまとめるとハナレグミは、ハードボイルドな母と描写されない空気のような父に対し、友達のように付き合うこともあるが、基本的には他人という最も距離の遠い存在だ、と考えているということが明らかになりました。
特に母はハイライトとともにウィスキーをたしなむレアな女性なので、そんな家族も割とレアな存在なはずです。
しかし、このような家族は"どこにでもある"もので、"愛しい"ものだと思っているわけですね。

自らのレアな家族を"どこにでもある"と歌い、そんな家族にある他人のように遠い距離を"愛しい"と歌う。
これが何を意味するのかについて、最後に妄想してみましょう。

何か失敗をしでかした人に、たとえあり得ない失敗だったとしても、「良くあることだよ」と慰めの言葉をかける、というのはよくあると思います。
レアで遠い家族を"どこにでもある"と歌うのは、これと同じ趣旨の自分への慰めなのではないでしょうか?
また、"愛"というのは"ありのままを受け止めること"であるという考え方は、多くの人が賛同してくださると思います。

レアで遠い家族を"どこにでもある"と考えて自分を慰め、そして"愛しい"と考えることで、そんな家族のありのままを受け止めようとしている。
そんな優しくあきらめるような歌、それが家族の風景という歌
なのではないでしょうか。

やっぱり名曲ですね。

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