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「GINSODA SOLO EXHIBITION "Passing point"」鑑賞

昨日の午前中、百道にて野見山先生の展示を見終わった後、私は自転車を東区は箱崎に走らせたのである。
百道から箱崎。皆が言う前に言おう。お前は阿呆かと。
しかし昨日は自宅からの出発が早かった分、時間もあり、少しでも頭の靄を振り払いたいとの思いで休みの日などは無駄に自転車を漕ぐのである。
トータルで35キロほどだったら何とか平気だ。
向かうは「大学湯」であった。
そこは元銭湯で昨日まで作家の銀ソーダさんが展示をしていた。
大学湯は最近クラウドファンディングで募金を募っており、その集まったお金で改修工事が行われている。
その建物を後世に残そうという動きである。
銀ソーダさんは幼少の頃より大学湯にお世話になっており、このクラウドファンディングの企画にも参加されている。
今回の展示はその改装工事の最中に行われた。
昼ごろ到着した大学湯は足場が組まれており、そのノスタルジーな外観を見る事は今はできない。
私が自転車を止めると音で気付いたのか銀ソーダさんが顔を覗かせてくれた。
この大学湯での展示も何度目だろう。その都度私は見に行っている気がする。
入場料の500円を払い、私はスリッパに履き替える。改修工事の途中の為に展示スペースはいつもより狭い。今回は浴場が完全に工事中であった。
しかしこのような工事中の中の展示もいい物である。こんな経験は滅多にないし滅多にない割には私は過去に似た経験がある。
それは京都や奈良の寺社仏閣巡りである。
歴史ある建造物は定期的に改修工事があってたりする。
私は仏像が好きなのだがそんな仏像を足場の隙間から見たりする事も少なくない。
本堂で見る事が本当は一番なのだろうが後世に残す為にはこんな日だってあるだろう。
そう自分に言い聞かせて仏像を見たものである。
今回の大学湯も同様だ。
京都や奈良の寺社仏閣に比べれば歴史は少ないかもしれないが大学湯に対する思い出は周辺に住んでいる方々からしたら相当な物だと思う。
そんな思い出を残すためのいわば手術みたいなものなのだ。ある意味で貴重だ。
なので今回は脱衣場が展示スペースだった。浴場への扉の前に銀ソーダさんの大きな作品が目に入る。それはいつも見るような色々な青で色々な技法で描かれた作品だ。ある部分で激しく、ある部分では楽しく描いてある。描画道具から直接感情を隠す事なく線として、面として移しているようだ。銀ソーダさんの作品を見るといつも思う。この人は作品を楽しんで描いているなぁと。
ロッカーの中には小作品が展示されている。小作品は画面の小ささを活かしているのか、技法は多くは見られない。だからというべきか、だからこそというべきか大きな作品とは違う表情を見せる。
いきなりな例えだが大きな犬は穏やかなイメージがある。しかし銀ソーダさんの作品は逆だ。
大きな作品はいろんな技法を使っていていつ奔放に遊び始めるかわからないような楽しさがある。いわば「動」だ。
対して小さな作品は限られた技法でひっそりと佇んでいる感じがする。「静」である。
そしてそれを描いている銀ソーダさんはというと至る所で展示をしてはその会場に必ず顔を出すらしい。「動すぎる動」である。
アートを愛し、青を愛し、作品を愛し、大学湯を愛する。
愛ある人である。
そんな愛に溢れた銀ソーダさんはじめ様々な関係者でもって大学湯は改修されて新たなノスタルジーを築く為に今はちょっと見栄えが悪い。
しかししばらくしたらまた綺麗になった大学湯が見れるのだ。
そしてその時にまた銀ソーダさんの作品が見れるのを楽しみにして私は大学湯を後にした。

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