芸術の山

「例えるならば、我々は山を登っているのだろう」
今日同じ芸術に携わる友人と話していた時にふと出てきた言葉である。
人生生きていく上でどんなことにも当てはまる言葉かとは思うが、我々のようなものづくりの業界ではとても強く意識せざるをえない言葉ではなかろうか。
「でも頂上ってないよね」
そんな強く意識する言葉の次に出てきた言葉がこれである。見えないとかではない。「ない」のだ。何故ならば登っている山そのものが自らが作った山だからである。
だから自分で「頂上」を決めなければならないのだがそれも難しい。自分で決めるというのはどこか妥協とか甘えが含まれていそうだ。
例えばなにかしらの「賞」があったとしよう。しかしそれは「目標」ではあるかもしれないけれども「頂上」ではない。「頂上」と思っていた事はいつの間にやら通り過ぎていて先を見ればどこが終わりかもしれません最早わからなくなっている。
物事とは終わりがあるからやりがいというものがあるものだが、これでは途方もなさすぎる。やる気も失せようというとそうでもない。今私は山を登っているのだなと自覚した頃にはもう麓は遥か遠くにあり、感覚が麻痺しまっているのか先が見えないのが常態となってしまっている。これが良いことか悪いことかはわからない。
その時に初めて気づくのだ。「嗚呼、私はもうどっぷりと芸術に浸かってしまっているのだな」と。後にも引けぬ、先に進むしかないなかなか険しい山道である。
いや、引く事は出来るのだろう。何せ自分が作った山なのだ。崩すことも飛び降りることもおそらく簡単である。
しかし自分がそれを許さないのだ。やはりそれは気がつけばどっぷりと浸かってしまっているが故である。
その浸かり具合がなんとも心地いいのだ。しかしそれは他人からしたら熱湯か冷水であろうと思う。
厳しいこともわかっている。思い通りに行くことも少ない。それでも自ら山をまた作り、先の見えない登山を続けるのだ。
だって芸術が好きなのだもの。

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