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「Kyushu New Art」鑑賞。その2

20日まで開催されていた博多阪急の「Kyushu New Art」の一画にて他の展示とは別に設けられた展示があった。それが「すうひゃん。」さんと「小田瀧 秀樹」さんの二人展である。
お二人はご夫婦で共にアーティストである。
宮崎を拠点に活動をされているお二人だが、小田瀧さんは2年前に亡くなられている。
私が前情報として得ていた知識はそれくらいで、どの様な作風なのか、そういったもののほとんどは会場で感じることができた。
すうひゃん。さんの作品は大きな画面に子供をメインに描かれてある。彩度が少し落としてある気がする。だからなのかノスタルジックな雰囲気がある。タイルばりのお風呂に入っている作品の隅っこに石鹸が転がっているのが何故だか可愛いと思える。
小田瀧さんの作品はとにかくルールが無いという一言に尽きた。
これは思いついたらその場で描いていたのか。
小作品に関しては「思考」という順序を放棄しているのではと感じるほどだ。
もちろんそんな事はないのだろうが。頭で考える前に腕が動いている様な。心臓から指先まで「表現活動」に支配されたかなような作品に思える。
とにかく支持体がなんでもありだ。パネルなどから段ボールまで色々なものに描いている。
この自由さを私は楽しいと思った。思ったのだが一つのフィルターが脳に降りている。
それはこの作品を描いた作家が故人ということだった。
面識などもない。今回初めて知った作家さんでありながら私はその作品をどこかで「虚ろ」の様にも感じていた。
その表現も間違っているかもしれない。適した言葉が見つからない。故人ということを知らなければもしかしたら印象が違ったかもしれない。
だからといってそれを知らぬまま見ることも不遜であろうと思う。こうして書くのももしや失礼かもしれない。
ただ小さな作品にも大きな作品にも小田瀧さんの独自のエネルギーが満ちていた。ある作品はそのエネルギーを放出し続けており、ある作品は放出仕切った様な。作品毎に色々感じた。
この展示を知る前。私は作家の死後に作品が残る事はどうなのだろうかと作家であり鑑賞者でもある私の目線で考えていた。
それは先月に亡くなった知り合いの作家さんの影響は少なからずともあったとは思う。
良い部分は当然あるだろう。しかしその反対もあるだろう。
ハッキリ答えは出ないのだ。しかし作品を「思い出」という目線で見たくはない。
ずっと生きた作品でいてほしいと思う。

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