「破戒」を読んで

私は、他人のまぶたが一重か二重かということが必要以上に気になる。

友達とご飯を食べるとき、地下鉄の中吊り広告の芸能人をふと見るとき、
職場で上司に話しかけられるとき、いつも相手のまぶたを見る。

あ、この人は一重なんだな、この人は、末広二重か…。
この子、今日アイプチしてるな、整形するつもりはあるのかな…。

相手のまぶたを見つめたまま、そんなことを考えているものだから、
相手からは「なにぼーっとしてるの?」と不審がられるレベルだ。

しょせんまぶたに一本線が入っているか否かということが、
こんなに気になってしまうのは、まぎれもなく、
自分が一重であるコンプレックスからである。
(正確には私は奥二重だが。)

頑なに二重になろうとしないまぶたを何とか二重にしようと、
毎朝アイプチをまぶたにつけている。
アイプチにはまあまあ時間がかかるので、
アイプチ中に読んだ本を思い出したり、考えことをしたり、ラジオをかけたりする。

今日は、アイプチでまぶたと戦いながら、
昨日読了した島崎藤村の「破戒」を思い出していた。

「穢多」という出自で差別されそれを隠し続けることが、
本人の考え方・行動・幸福度など人生のすみずみまで影を落としてることが伝わってくる、素晴らしい作品だった。

特に印象的だったことは、
丑松本人がその出自に負い目を感じているという特徴だった。

丑松は教師として生徒に慕われ、教師仲間にも恵まれ、下宿先には好きな人がいて、若く、周りの嫉妬を買うほどに順風満帆だった。
ただ一点、「出自が穢多である」ということを除いては。
「順風満帆な丑松」と「穢多である丑松」の対立が、
他の登場人物の誰よりも丑松自身から見えてくることが印象的だった。
例えば、教師仲間の銀之助や下宿先のお志保、学校の生徒は、丑松が穢多であろうとなかろうと気にしない様子だった。
しかし、丑松の中の、「教師である丑松」、「生徒に慕われている丑松」、「銀之助といる丑松」、「お志保といる丑松」たちは、「穢多である丑松」を責め、隠そうとしたのではないかと思う。

「教師である丑松」、「生徒に慕われている丑松」、「銀之助といる丑松」、「お志保といる丑松」たちは、どれだけ努力し、学問を積み、他人を助けても、それが自分の出自のせいですべて無に帰してしまうことをなによりも恐れていた。

つまり、丑松の中でも、「順風満帆な丑松」が、「穢多である丑松」を差別していたのではないか、と思う。

しかも、出自で差別される苦しみは、貧乏である苦しみなどとはまた違った辛さで、お金を儲ければ解放されるようなものではない。自分が生きている限り一生ついて回るのである。

自分が、自分を一生差別し続ける。「破戒」ではこの自己の中での差別が、丑松の行動や性格に大きな影響を与えている。

今回、この作品を読むまで私は
同和問題・部落問題を意識したことはほぼなかった。
そういった差別問題が存在することは知っていたが、
じゃあ例えばどの地区が被差別地区なのか、
ということについては全く分からない。

しかし、今日においても、出自に対して思うことを抱えている人たちは、
丑松のような「自己の中での差別」に苦しんでいるのではないか。
周りは、その人の出自なんて全く分からないし気にしない状況でも、
本人が自分をもっとも苦しめていたら。
「破戒」では、被差別者が「外部からの差別」と「自分自身の差別」の二重の差別に苦しむ様子がよく分かり、「差別」ということがいかに根の深い問題かを再確認させられた。

先日、二重整形をしたい旨を友達に話した。友達は、

莉子ちゃんが二重かどうかなんて、今まで気にしたことなかったな。
多分、自分自身が一番気になるんだろうね
」と言った。
それを聞いて少しだけ気持ちが軽くなったような気がした。

二重かどうかなんて部落差別の問題と比べたら、
大したことないかもしれない。

しかし、自分の中のもう一人の自分の視線が、
時に、差別問題を、コンプレックスを、二重に複雑にしているということを認識することで、少しだけ気持ちが軽くなることもあるのではないか。
「自分の中で自分を差別している人格」を認識することが
あらゆるコンプレックス・差別に対処する一歩となるのではないかと、この作品を通して思った。


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