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形見の眼鏡とバス停まで自転車で見送りにきた父



山本おさむ『父を焼く』(原作=宮部喜光)を読む


「じさを荘ときたま日誌」⑤

父がのこした実家「じさを荘」を、空き家利用で家族葬専用ハウスとして使ってもらっています。そんなこともあり、「弔い」がテーマの作品を自然とよく手にします。
『父を焼く』(山本おさむ・原作=宮部喜光・小学館)は、天袋にしまっていた両親の遺骨を樹木葬の墓地に納骨するために出かける。その日から遡り、主人公の目で描かれる家族の話です。

語られる父は「巨人の星」の星一徹のようなというか、まあ困った父(日雇い仕事で家族を養いながらも酒におぼれ、自分本位で、家族からすればとんでもない。ただ、それには父にもこういう切ない事情もあったのだけれど……)で、50代になった息子の「私」と、回顧する「父」の顔つきが似ていて、読者であるわたしは頁を繰りながら自分と父のことを重ねてみたりもした。
とりわけ父がなくなったと知らされ、新幹線に乗って帰郷するシーンでは、10数年ほど前にわたしの父が入居していた施設から電話を受け新幹線に乘ったことを思い出しました。

主人公の父親が自宅で孤独死をした(発見が遅れ、家に入ったときには寝室は蠅だらけだった)のとは異なり、父の場合は療養していた施設で朝食をとったあと容態が急変したという違いはあるものの、黒電話の側に「電話番号が大きく貼ってあった」というのは同じで、ついそのコマに見入ってしまった。

もうひとつ。主人公が帰路につこうとすると、父親がバス停まで自転車で見送りに来る場面だ。
父も「じゃ帰るわ」とわたしが腰をあげると、近くのバス停まで自転車を押してついてきた。「もうええよ」と言っても、バスに乗車してからも、ずっとわたしの方を見ていた。ふたりでいても、とくだん何か話すわけでもない。仕方がないから夏の時期はよく甲子園の実況中継のテレビを眺めていた。プロ野球にもまったく関心なく、子供のころキャッチボールしたのも干支が同じ次姉とだった。姉から「あんたを育てたんは、あたしやからね」と笑いながら言われたものだ。
会話のない父子だった。そんなことを思い出させる漫画だ。

山本おさむ『父を焼く』

作中でとくに印象深いのは「遺品」となった時計と眼鏡にまつわる話だ。叔父から、最後まで身につけていたものだと差し出された眼鏡は、主人公が高校時代につけていた学生らしい黒縁のもの。
父親は生活保護を受けていたというが、古びた眼鏡を愛用していたのは貧しさだけが理由でもないだろう。遠くに行った息子のものだからこそ身につけていたにちがいない。それは主人公も瞬時に理解したはずだ。
わたしの父も晩年、わたしが図工の時間に作った陶器の灰皿を、おそらく震災で半壊した家を取り壊すために家財整理をしていたときに出てきたのだろうものを使用していた。子供のころの父は、なんでもかんでも捨ててしまう断捨離のひとで、デパートの包装紙や箱を納戸に保存しておく母とよく口論になっていた。
記憶から消えていた拙い工作物をわたしが見ていると、「これか、使えるからなあ」と父。ヘンだと思ったが、なくしてみて父の心境を察するようにもなった。

山本おさむ『父を焼く』(小学館)
火葬場の場面。炉の前で、喪主である主人公が係員に促され点火ボタンを押す。映画などでも目にする光景だが、わたしには喪主をつとめはしたが、ボタンを押した記憶が抜けおちている。
「じさを荘」を管理してもらっている「あゆみセレモニー」の川原さんに訊ねたところ、
「ああ、こちらではボタンを押すのは火葬場の人なんですよ」
と教えられ、長年の謎は氷解した。
さらに関西では骨壺に入れる骨は一部で、骨壺も関東と較べると小さい。謎だったのは、置いていった残りの遺骨(骨壺に入れたものよりはるかに多い)である。いろいろなひとに聞き、他の人のお骨とともに供養されますと言われたりもしたのだが、いまだに、なんとなくもやっとしている。


墓をどうしょうか。
父が亡くなったとき、檀家だったお寺の住職に連絡したところ、大揉めしてしまった。傍で聞いていた兄(異父兄姉で、兄や姉の父は沖縄で戦死。その弟にあたる父が戦後、母と再婚。兄たちにとって父は継父にあたる)ともその後関係がまずくなり、父の遺骨は実家の墓には納めず、父が阪神淡路の震災後に建てはしたものの一度も住もうとはしなった新居(現在のじさを荘・いまはお寺のないお坊さんに一室を仮寺として間借りしてもらい遺骨を預かってもらっている)に置いている。

住職と口論になったのは、「父の戒名ですが、生前話していて考えたものがあるんです」と言ったことから雲行きがあやしくなり、「あんた何の仕事をされとるか知らんけど、仕事をしているのならわかるやろう。人のビジネスに手をつけるもんやない」と声を荒げらられ、えっ⁉ いまあなたビジネスと言ったよね。
それまでへりくだっていたのがプチンときて「もういいです」「いいですって、どういうことや」「来てもらわなくともいいです、ということです」「おいおい。私が行かんで、どうする言うんや。よう考え。それにキミがそういう料簡なら、ご先祖もお墓から出ていってもらわないかんことになるぞ」と言われもした。

ビジネスなのか、戒名は?
住職の口から出たまさかの一言が、ざらついたまま頭のなかでリフレインしていた。
わたしが父の戒名を自作したのは、ある宗教学者が書いた、戒名は自作してもいいんだよという主旨の本を読んだからだ。
生前、父は寺への多額の布施を欠かさなかったが、「何かというと金、カネいうてなあ」と住職のことは眉をしかめていた。気にそまないのならボクが戒名つけたるわと軽口で言うと「おまえがかあ」と面白がった。めずらしく雑談になった。そんなことを思い出し、新幹線で帰郷する間に父のことを振り返りながら考えたものだ。

仏教でいう「戒名」はブッダの弟子となる証として授かるもので、日本では死後の命名が慣習化されてはいるが、本来の教えにそうなら生前に弟子の証として授かるのものらしい。そうしたことは後に仏教関係の本を読みあさって理解したことだ。

父は、葬儀、墓参り、法事などは欠かさないひとではあったが、仏教の信徒というのでもなかった。
「死んだら終わりや」といい、むしろ無神論者に近かった。仏壇やお墓を大事にしていたのは、先立たれた妻(母)がそうしたことに熱心だったからではなかったか。

わたしもまた無神論者である。だから父に「戒名」をつけはしたものの、本来の教えからすると無資格者が無信心者に授けただけのこと。それ自体には何の意味もないものだと後に理解もした。それでも幾人かの僧侶に父の戒名をつけた経緯を話すと、行為自体は「よいことをされました」「そのご住職ももう少し話を聞こうとされたらよかったのに」と言われ、それはすくいになっている。

父の葬儀は結局、葬儀屋さんに紹介してもらった同じ宗門のお坊さんにお願いし、通夜、葬儀、その後の四十九日、初盆、一周忌と一年お世話になった。そのためにその都度帰郷することになるのだが。父の生前には盆暮れくらいにしか戻らなかったのに。
自作の戒名も、そのお坊さんに紙に書いたものを見てもらい「どこで勉強されたんですか」と承認してもらえた。
「ただし、これは私がつけたことにさせてください」と別途、戒名分のお布施を要望されはしたが「いい戒名だと思います」と言ってもらったのとビジネス坊主への反発から、いま思うとあんなに無理して包まなくともよかったかなぁというくらいお布施をわたしていた。

その後、「あの坊さんの言い方はないわ」と同調してくれていた兄が「家の墓のこともあるから」と住職に詫びを入れ、相続のことで揉めるなどして関係がまずくなり、実家の墓の管理は兄が継承することになった際、生前に父と兄とは財産のことで裁判までし犬猿の仲だったこともあり「お兄ちゃんがお墓を継ぐなら、父の遺骨はべつにしようと思う」と口にしてしまったのだ。そのことについて後悔しないではない。

そもそも兄とわたしは父違いの兄弟(兄とは15歳離れていた)ではあったが、子供時代はそうした事情を知らされてはおらず、父よりも兄に懐いてよく遊んでもらっていた。だから相続のやりとりを機に完全に疎遠になった兄だったが、数年前自宅の玄関先で亡くなっていたというのを人づてに聞いたときには言いようのない寂寥にとらわれた。この『父を焼く』を繰りながら、兄のことを思い返しもした。

↑よくある葬儀社のHPですが、インスタグラムに載っている祭壇の花写真。花にこだわる会社らしい。ひとつひとつに色味も違っていて、きれいです。

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