「夢を追いかけること」って聞こえは良いが実は呪いなのではないか。
突然だが、「夢」というものを追いかけたことがあるだろうか。
追いかけたことはなくても、主に義務教育時代にクラスでの自己紹介や何らかの発表会のタイミング等に「将来の夢」について聞かれて、それについて話したり書いたりした機会ならあるという人はほとんどなのではないだろうか。
夢には、将来実現させたいと思っている事柄という意味や、現実から離れた空想や楽しい考えという意味が挙げられる。
また、夢というのは儚いものであったり、子供の頃は無限大に持っているが大人になるにつれ現実を突きつけられて持たなくなっていくもの・見るのは簡単だが叶えるのは環境に左右されたり、脇目も振らずに命を削り弛まぬ努力を積む必要があったり、同じ志を持つ敵同士が多いが故に大層難しいものという到底生涯規模で見ても叶うはずのないイメージを持っている人々も居るだろう。
実際、自分の好きな歌手であるFLOWER FLOWERのyuiも、YUI名義で活動していたソロ時代にこういった言葉を残していた。
「“夢”って辞書で引いたことありますか?それは“叶わないと分かっていて思うこと”なんですよ。」と。
夢というのは叶わないこと前提で見ることであることを語っているのが伺えるが、どこかでもし叶ったらこれ以上の幸せや理想は無いと感じるからこそ、思わず現実から目を背けたいために見るものであると自分は考察した。
さて、ここから本題へ入っていこう。
「俺に言わせればな、夢ってのは呪いと同じなんだ。呪いを解くには、夢を叶えなきゃいけない。.....でも、途中で挫折した人間はずっと呪われたままなんだ.....」
これは仮面ライダー555で木場勇治がある戦闘シーンで口にしたセリフらしい。
夢は呪いとはどういうことだろう。
そもそも何故夢を持つと呪われるのか、何故そんな重しがのしかかるのか。
夢を諦めてしまうとずっと呪われたまま、重しを退かせないまま...⁇
これって夢を追っている人って、先進国日本なら決して少なくない話だが、まだその夢を叶えられていない人々の全員が全員そんな悲壮な気持ちを背負って生きているの?ということになる。
決して罪人でもないのに夢を追いかける人は呪いや重しを背負うことになる...呪いを解くには夢を叶えるしかないって...そんな可哀想な話があるだろうか。
夢は呪いだという言葉について色々と調べてみると具体例が出てきた。
自分が好きで観ているYouTuberのシバターさんが語っていたこと。
それは2年前のMー1グランプリ。
2021年大会だが、奇天烈の極みのランジャタイやなにわNEWフェイスのももといったダークホースや優勝候補とされていたオズワルドやインディアンスといった常連組を退いて錦鯉が優勝を果たしてそれぞれ史上初のコンビで40代以上・長谷川は50歳で念願のドリームを掴んだ大会である。
勿論錦鯉は去年に続いて面白い漫才だったしおっさんキャラを活かした造りで会場を我が物顔にし、優勝を果たしたという所は素直に尊敬したい。
しかもそれぞれ元々別々なコンビで活動しており、その時代を含めると苦節20年以上は優勝までに費やしただろう、そこまで諦めず足掻いて優勝したのも2人の努力の賜物だし、天晴れだ。
『だが、よく記事で見かけるがその優勝を美談として語っていいのか。「諦めずに追っていればいずれ夢は叶う」と言うけれど、もし夢を叶えられなければその人達はどうなっていくんだろう。錦鯉の場合は優勝できたから良かったねで終わるけど、50歳どころか⚪︎ぬまで夢を叶えられない芸人だって居るはず。だったらもっと他のことに時間を費やしてた方が有益だったかもねってなったりする。これは何事も同じだ。夢というのは呪いなんじゃないのか。』
というようなことをシバターさんが語っていた。
当時これを聞いた自分は、ハッとさせられて、思わず夢について考えていた。
考えると、事実が段々と見えてくる。
『確かに、夢を追いかけることって聞こえは良いけど「宝くじに当たりました!」とか「プロ野球選手になれました!」とか「Mー1グランプリで優勝しました!」等、夢が叶うのは大抵ほぼ一握り。でも口にしたり行動した奴しか夢は叶わないとか夢に対する聞こえを良くするように言うけど、それでも多くの人はその希望・夢を叶えられないまま⚪︎んでいくってことじゃん。なにそれ。綺麗事だと思ってたけど夢を追いかけることって、怖さが凄いな。』
と率直に考えを巡らせていた。
シバターさんが語っていたことで、仮面ライダーの木場勇治が残した先述したあの言葉の意味が分かった気がした。
「呪いを解くには、夢を叶えなくちゃいけない。でも途中で挫折したり叶えられず終わると、永久にその呪縛からは抜け出せない。だから夢は呪いだ。」
というようなことを木場勇治は残したが、夢を一度諦めてしまうと、「あの時諦めなければ今頃夢叶ってたのかな」とか「あのまま辞めずに続けていたらどうなってたんだろう」とかそういう「たら・れば」に永久に苦しめられるという状態を「呪われたまま」=「永久呪縛」と言い表しているのではないかと思う、だから「夢は呪いとか、重しと同じ」だと。
また、シバターさん曰く夢は人に迂闊に勧めて良いものではないらしい。
「一度きりの人生なんだから夢を追えと言って、もし夢を叶えられなかったら、その時どうするんだよ。その人に対して責任は取れるのかよ。」
とHIKAKIN & SEIKINが出した「夢」という曲のアンサーソングとしてこのような歌詞を替え歌で歌っていた。
確かに「お前はプロ野球選手になれる」や「お前はYouTuberになれる」等、夢を追うよう勧めたとしてももし叶えられなかったら、双方がどう思うかにもよるが「家庭や日常を無駄にさせちゃったな」「他のなりたかった職業を捨てさせちゃったな」等様々な責任が伴ってしまう可能性がある。
だから夢を追うように人に言っちゃいけない、人に対して夢を追うように、もしくは夢を諦めないように勧めるのは冷静になって考えると聞こえは良いように見えてとても危険で残酷なことである、ということを言いたいのだろう。
自分もこの木場勇治とシバターさんの言葉は中々的得ているし納得した。
これ、もっと身近なことでもなんでも同じことが言えるんだろうなと感じたので最後にそこに置き換えて話を進めさせていただきたい。
例えばTBSで放送されている「SASUKE」という毎回芸能人やアスリート問わず一般の運動自慢を含めた100人が参加し“鋼鉄の魔城”と呼ばれる4つの巨大アスレチックに挑み完全制覇を狙うという“究極のサバイバルアタック”というべき視聴者参加型のスポーツエンタメ番組がある。
26年の歴史で完全制覇者はたった4人であるので完全制覇は今のステージ構成の難易度を考えるとあの有名な現役最強プレーヤー・サスケ君こと森本裕介選手以外は現実的にかなり難しい話になってくると思っている。
更にあの要塞は選手1人1人の成長を待ってはくれず、誰かがSASUKEを制覇して陥落させたり制覇に近づいた場合、次回以降エリアが更に改良されレベルアップすることがあるのも難しいし面白いところである。
そしてSASUKEは本番のセットに触れるのは1大会に1度のみ、リタイアすればいくら練習を積んでいても即終了という究極の1発勝負とも呼ばれる。
事実、常連やその仲間内が認める選手以外の出場者からすると、完全制覇という話は夢のまた夢であろう。
更に出場するには著名人や、肩書きや特技を買われても倍率のとても高めな一般オーディションや、そこに呼ばれず参加できなかった選手は500人が参加する突破率0.4%という過酷な予選会を勝ち上がる必要がある。
予選会やオーディション免除で出場できるのは、常連選手や売り出し中の芸人やアイドル・日本を代表するスポーツアスリート等に限られる。
今のSASUKEは昔と比べて視聴率重視なので、こういった芸能人やアスリート等に枠を割いて新規層を増やして視聴率を稼ぐ試みが増したような気がする。
だからこそ、完全制覇はおろか毎回100人までしか参加できないという当初のコンセプトを貫く以上一般人があの錚々たる100人の出場者の中に残るという話も至難の技なのだ。
それを考えると、叶った人は良かったね、幸せだよねで終わるけど完全制覇という夢、または出場という現実的に叶わなくて当たり前と言える夢のために一体どれだけの選手達がこのコンテンツに時間を費やし、諦めていった人や、諦めていなくても仲間や憧れの選手の活躍に「じゃあ自分も」と、今日ももがき続けている人が居るかということだ。
また、それらの夢を追いかけるあまりリストラされたミスターSASUKEこと山田勝己選手や、転職した孤高の天才スプリンターの奥山義行選手や、教師の仕事を休職した朝岡弘行選手、かつて「トレーニングに時間を割きたい」と定職に就かずバイトで生活していたビルメンテナンス業の菅野仁志さん等、 SASUKEに懸ける旦那に理解を示せず離婚であったり、 SASUKEに出場するべく他にはないような肩書きを作るため、進路やなりたい職業を変えたりするパターンもあるのだ。
このようにSASUKEのために家庭や仕事をも大きな犠牲を払ってしまった選手もいる(※これについてどう考えるか、どう捉えるかは本人次第だが)。
「SASUKEのために日常・家庭・仕事を犠牲にした人は、制覇できたらそれは勿論夢叶って良かったね、幸せだねで終わるけど、そうじゃない人って制覇できるまでずっと夢に呪われたままなのかな。犠牲にしたことも報われないし。だったらその呪いを解くには完全制覇するしかないのかな。」
そんなことを思ってしまったのだ。
あとは引退を決意したのにも関わらず撤回して復帰したり、引退しようとしている選手に「もう一度頑張る」よう勧めるような場面も放送では時々見られるがそれも勧められる側の人間によっては怖いことだなと考える。
夢という呪縛から解放されずそれを解くためにまた完全制覇目指して本気で挑戦したり。
個人の判断だが、身を引いたものの何かを犠牲に報われるか分からない道に再び足を踏み入れるという、危険なことだと思うからだろう。
更にSASUKEは先述の通り1年に1回きりでリタイアしたら即終了の、”究極の1発勝負“であるし、しかもまだ現段階ではその活動が大きなビジネスに直結することも少ない。
他と比べてSASUKEは定められたルール上、特に夢を持って日常・仕事・家庭等を犠牲にして挑むのは、とても危険なコンテンツなのかもしれない。
実際その生き様がカッコよく見える。
だから15年放送を見続けてきたし。
非現実的だし、漫画みたいだし。
憧れるし、尊敬できる。
輝いて見えるし追いたくもなる。
だけど。
1発勝負の本番リタイアして1年間の努力を棒に振るったらどうするの⁇
完全制覇できなかったら、夢を叶えなければそれまで犠牲にした日常や家庭・仕事のこと等どうなるの⁇
その時どんな気持ちで辞めていくの⁇
辞めてひと段落ついても、「やっぱり諦めきれない」「あの時もっと努力してればな」というたら・ればはどのくらい感じるものなの⁇
そんな考えを持つようになった。
振り返ればSASUKE常連の川口朋広選手も、「夢は呪い」とも似たような考えを根幹に持っていることが分かった。
「完全制覇は仕事の終わる時間とかもそうなんですけど、かなりのものに犠牲を払わなければ無理なんですよ。なのでもし完全制覇をしたら引退します」
これは2015年の31回大会3rdステージ競技前のVTR中でのコメントである。
川口選手だけではなく、犠牲にしていることがあるが故に、夢を叶えたらその場から身を引くと決心をしているという人も少なからず居ることだろう。
放送では勿論見栄えのためにその人を煌びやかに勇敢に映すけれど、実際にリタイアして涙を流す選手や家族や仲間にごめんと謝る選手などを放送で目の当たりにすることがある。
「夢は呪い」という言葉を聞いて以来、リタイアして泣いたり悔しがったり謝ったりする選手を見るたびに「お疲れ様、よく頑張った」という想いと同時に可哀想になりいたたまれないという気持ちも出てしまった。
何故なら「夢を叶えられなかったね」ではなく、「夢という呪いを解けなかったのか...」ともしかすると思ってしまうからなのかもしれない、いくら好きでやっていても本気で取り組む以上は結果がついてこないと悔しいし、やるせない気持ちになるのは仕方ないし、そう思うから奮起して努力を重ね、成長していくのだから、こうして沈むのは1つの必要過程だろうに。
全員が全員大きな夢を追いかけているとは限らないだろうけど。
こんな考えをしているのは事実として掲載したがそんなことを実際に一生懸命に夢を追って日々奮闘している人達に話したら怒られてしまうだろうか。
あくまでこれは捉え方の問題で、「夢が叶えられなくても目指すことに意義がある」「かけがえのない日々や仲間ができる」「日常が充実して自分らしく過ごせる」等の理由で夢を追うことは大事だとメリットの方を考える人も多いとは思う、そのような人はそれで良いと思う。
ただ、「夢を持つのは大事だが、自分を客観視できて、自分を俯瞰して見れて、どこまで行けてどこから先が行けないのかという線引きも、夢を持つことと同じくらい必要だ」
ともシバターさんは語る。
自分もこのような考えを、夢を持つことに対してすることが大事だと感じた。
叶うはずのない無謀な夢を追い続けて潰れていったら本末転倒だ。
ある種自分のキャパを明らかに大きく越えている夢を追い求めるというのは“ギャンブル”に走るのと変わらないのだ。
また、夢が現実逃避に繋がり、「芸人で売れたいから下積み時代は売れるまでバイトで」と定職に就くこと等の逃げ道になる可能性もあるらしい。
なので自分は、「夢」を持つことよりもそこに行き着くような目印となる「目標」を持つことを勧めたい。
小さなステップアップの繰り返しを楽しむことを推奨したいのだ。
最終的に、それが小さな目標の積み重ねで一歩ずつコツコツ進んでいき、いつか大きなことを達成させるというのが狙い。
小さな前進も褒めて讃えてあげる。
まさしく”塵も積もれば山となる“ということわざと同じすすめといったことだ。
最後に
「夢は大事」
「夢を諦めないで」
「夢は叶うよ」
「夢を追え」
「夢はもう見ないのかい」
.....................................................
夢というものは聞こえは良いが、夢を持つととても切なくなるタイミングがあるらしい。
反面、時々とても熱くなるタイミングもあるらしい。
夢を持つ人々は、何が起こるか分からない世の中で、そういった絶叫マシーンのようなスリルや刺激を追い求めて生きている実感を感じたいのであろう。
怖さを楽しむ人だって多い。
夢を追うことを人類がやめたら、人間の成長も間もなく止まってしまうのだろうか。
夢を追う概念が人類に無かったら、今や誰もが憧れるスターやレジェンドのような人材は生まれていたのだろうか。
将来の日本や世界を担っていく子供達に「君達には無限大の可能性が秘めているよ」と謳い、“夢を追うこと“を勧めるのには、こういった背景が隠されているのかもしれない。
そう思うと夢には素晴らしさも少しだけあるかもしれないなって今になって思った。
面白い。
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