夏目漱石「こころ」は前半が面白い(1)
言わずと知れた夏目漱石の有名作品「こころ」。
大正3年(1914年)連載の作品。
この「こころ」は、後半「下 先生と遺書」の一部が高校の教科書に掲載されており、私もそれで知りました。同じ経緯でこの作品を知った人も多いでしょう。
- 語り手の男が、「K」という友人と、「お嬢さん」という女性を取り合った。その結果、「K」は自殺してしまう。さらにはその語り手も ー
この結末に衝撃を受けた人も多いでしょう。私もその一人です。
しかし、改めて読み直してみたら、
「こころ」は、教科書には載っていない前半部分が、面白かったのです。
これはあえて逆を張っているのではなく、本当にそう感じたのです。
これについて、語っていきたい。
(※ 添付の画像は、新宿区立漱石山房記念館で私が購入した新潮文庫の「こころ」です。今は青空文庫でインターネット上で無料で(著作権切れ)読めるのですが、あえて漱石山房記念館で、書籍を購入しました。)
1、「こころ」の構成
「こころ」は、三部構成の作品です。
高校の教科書だけでしか読んでない方は、このこと自体知らなかったのではないでしょうか。私もそうでした。
手持ちの文庫本で全327頁のうち
の構成となっています。
そして、みなさんご存じの「K」が登場するのは、「下 先生と遺書」の第十九章、219頁からのことです。
(※ 著作権切れにより引用自由です。)
つまり、「向上心がないものは馬鹿だ」との印象的な台詞を残し(「先生と遺書」三十)、下宿で自ら命を絶って、かつての高校生達に衝撃を与えた男・Kは、物語の一部分でしか、姿を現していないのです。
つまり、Kとは直接絡まないところでも、興味深い描写が多数「こころ」にはあるのです。
これを論じていきます。
2、いきなり冒頭からおかしい
「こころ」の冒頭分は有名ですね。
しかし、これに続く冒頭の段落が、いきなりおかしい。
上記引用が、「こころ」の第一の段落です。
「余所々々しい(よそよそしい)頭文字などはとても使う気にならない。」
もちろんここで「よそよそしい頭文字」と言われた対象は、遺書における「K」表記以外にはないでしょう。
中盤までの物語の語り手・主人公であり、先生から遺書を送られた「私」(わたくし)は、「先生」に異常なほど酔心しています。それこそ、「先生」と呼ぶほどに。
(なお、「先生」は教育者でも研究者でも作家でもなく、両親の遺産・妻の母の遺産で生活している無職のおじさんです。)
その「私」が、冒頭第一段落でいきなり、「先生」が遺書において何度も何度も記した「K」の表記にういて、嫌味のような言葉をはなっています。
しかも、普通に見たら、「K」、とイニシャルで呼び捨てにするのと比べて、「先生」と呼ぶほうがむしろ「よそよそしい」のではと思います。まだあだ名こみで「〇ちゃん先生」とか呼ぶなら親しみあるかもしれませんが。
私はこの「よそよそしい」を、「私」が単なる嫌味や当てこすりで書いているのではなく、「私」がそれまでの「先生」との交流や遺書を読んで、「先生」と「K」との間のなんともいえない微妙な関係を感じ取った上で、あえて書いてるものだと解釈しています。今のところですが。
つまり、先生とKとは仲が良いように見えているが、実はよそよそしい関係だと、少なくとも「「私」(=俺)のほうがKよりも先生と親しい関係だ」と、そう「私」が主張している、そう夏目漱石が書いているものだと、解釈しています。
3、「私」は、静(お嬢さん)と結婚か同棲している
では、「私」が一体なにをもって、自分のほうがKよりも先生と親しい、と主張しているのかというと、私の解釈ではこうなります。
・「先生」は、お嬢さんとKがくっつくことは嫌がったが、俺が(先生の死後に)お嬢さんとくっつくことは認めてくれた・むしろ推奨してくれた
これだと思います。
無論そんな明示はなく、私の解釈です。
この解釈について、おいおい語っていきたいと思います。
そして、私がこの解釈を思いついたのも、「こころ」の前半を読んだからです。
前半を読まなければ、この解釈は生じ得ません。
「こころ」は、前半こそが面白い。
4、今後ふれたいことの概略
・「明治45年の「こころ」」 - 明治天皇崩御(明治45年(1912年)7月30日)の直前から乃木希典の殉死(大正元年(西暦同じ)9月13日)-先生の遺書の送付、までの間、「先生」は東京の自宅におり、一方「私」は田舎の実家で父の看護をしている。
この期間中に「私」と「先生」の周辺に生じた出来事が、「こころ」では別々に書かれている。そこで現実の歴史上の事実を含めて、「私」やその家族と「先生」とを時間軸で比較したい
・「私」も「先生」も金持ちすぎ?
- 旅行三昧・就職への不安なし・残される静の生活不安なし
・ほとんどの登場人物が名前出ないのに、「私」の母が「お光」、「私」の妹の夫が「関」、お嬢さんが「静」と明記。この意味は? しかも「お光」「関」は他の漱石作品にも登場
・「私」の父の看護で妙に強調される「浣腸」。
そして静の母も、明治天皇も同じ病気だと。「行人」でも出て来る
・漱石作品で何度もある「兄と弟との不仲」。「私」もKも
・「先生」に「殉死」を勧めたのは、
静
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