夏目漱石「行人」考察(48)谷崎潤一郎



夏目漱石の小説「行人」。
引き続き、三沢と関わりがあった「精神病の娘さん」を元にこの物語を考察していきたい。

1、三沢は加虐趣味、一郎も


大阪の芸者で入院した「あの女」と、三沢宅にいて2年前に死去した「精神病の娘さん」。
この二人が「顔が好く似ている」のだが、外見以外にも共通する点がある。

どちらも三沢と出会った後に体調が大きく悪化した

これである。

1(1)三沢のサディストぶり


女達2人に対する三沢の加虐趣味を確認する。

・「あの女」
三沢の言を前提にしても、二郎が「なんでそう無益に苛めたものだろう」と感じるほど飲酒を強いている。元々胃は悪かったがこの飲酒がおそらくとどめとなり、長期入院。さらに「ことによると死ぬかも知れない」状態に陥っている。

・「娘さん」
同じく三沢の言を前提にしても、精神異常について「宅のものが気付いたのは来てから少し経ってから」→「気に入るようになったのさ。病気が悪くなればなる程」→「死んだ。病院へ入って」という経過である。当初は外形上異常は見受けられなかったのに、三沢宅に来てから病状が悪化していったのである。その結果、命まで失っている。

これはもう、好きな子に意地悪する小学生という次元を遥かに超えて、かなり強烈な加虐趣味・サディストと表現すべきではないか。

気に入るようになったのさ。病気が悪くなればなる程

(「友達」三十三)

三沢の台詞である。私はこれを三沢の憐憫の心情か、あるいは娘さんの「早く帰って来て頂戴ね」旨の物言いがより激しくなりそこに愛情を覚えたものと解釈していた。多くの読者も同じだと思う。

しかしこの台詞は、ずばりそのものの意味ではないか。

憐憫でも「早く帰って来て」との言葉でもなく、「病気が悪く」なる事それ自体が、三沢の好意もしくは性的欲求をより高めたのではないか。

以下の三沢の言葉も、そういう意味に聞こえて来る。

「あの女」の病勢も此方の看護婦の口からよく洩れた。――牛乳でも肉汁でも、どんな軽い液体でも狂った胃がけっして受付ない。肝心の薬さえ厭がって飲まない。強いて飲ませると、すぐ戻してしまう。
血は吐くかい」
 三沢はいつでもこう云って看護婦に反問した
。自分はその言葉を聞くたびに不愉快な刺戟を受けた。

(「友達」二十二)


1(2)一郎もサディスト


この観点から見ると、長野一郎のこの台詞も違う意味に聞こえて来る。

「噫々女も気狂にして見なくっちゃ、本体は到底解らないのかな」
兄はこう云って苦しい溜息を洩した。

(「兄」十二)

この一郎の台詞は表面上は「妻である直の本体がわからなくて苦しんでる」との意味だろう。

しかし、直に特段秘密にしており、精神異常にでもさせないと表明できないような「本体」などあるのだろうか。
単に「どうしても嫌というほどではないが一郎のことは特に好きではない」これだけではないか。

無論これは私の感想だ。だが一郎はこの「単に好きではないだけ」との解を検討しただろうか。おそらくその検討などせず「直には何か隠している本音が、隠している秘密があるのだ」と逃避しているのではないか。

引用した台詞は一郎の「直を精神異常に追い込みたい」という、歪んだ願望を表面上綺麗にして現したものではないか。

むしろ一郎にその願望があると考えたほうが、筋がとおる。
直と二郎を二人で一晩泊まらせようとし、またわざわざ直と他の家族らがいる前で「お貞さんは生まれ付きからして直とはまるで違」うと口にし、さらにHによれば三度、直に手を上げたと。

さらに一郎は「テレパシー」の研究に没頭していた。これも私は「直の本心を探りたい」との動機と思っていた。
しかし一郎は他人の心を読もうとするのではなく、お重に自分と同じ痛みや感覚を遠隔で感じさせようとしている。

 その話によると、兄はこの頃テレパシーか何かを真面目に研究しているらしかった。彼はお重を書斎の外に立たして置いて、自分で自分の腕を抓った後「お重、今兄さんは此処を抓ったが、お前の腕も其処が痛かったろう」と尋ねたり、又は室の中で茶碗の茶を自分一人で飲んで置きながら、「お重お前の咽喉は今何か飲む時のようにぐびぐび鳴りやしないか」と聞いたりしたそうである。

(「塵労」十一)

そうするとやはり、一郎の目的は直の本心を探ることではなく、直に不意に痛みや感覚を遠隔で与えて、精神異常を起こさせることにあるのではないか。

夏目漱石は「行人」において、とんでもないサディストを二人、描いたのだ。


2、漱石バイアス


話を広げるが、評論家や読者に「漱石バイアス」とでも呼ぶべきものを感じている。

2(1)「行人」は哲学的苦悩の話だ!

特にこの「行人」については、終盤「塵労」における一郎の苦悩語りもあり「近代知識人の哲学的苦悩がこの小説のテーマである」みたくとらえた感想や評論を何個か見た。

しかし、次の仮定をしてみよう。

・「行人」の作者は夏目漱石ではなく、谷崎潤一郎であった、と。

作者が谷崎潤一郎であれば、長野一郎は「近代知識人の哲学的苦悩の体現者」ではなく、「妻と自身の弟とを性交させようとする変態男」として普通に認識されたのではないか。

2(2)「行人」は変態小説

私は前にも少しだけ「作者が夏目漱石ではなく谷崎潤一郎なら、読者は違うイメージを持ったのでは」と書いた。

この入院中の話もだ。

「あの女」は嘔気が止まないので、上から営養の取り様がなくなって、昨日とうとう滋養浣腸を試みた。然しその結果は思わしくなかった。少量の牛乳と鶏卵を混和した単純な液体ですら、衰弱を極めたあの女の腸には荷が重過ぎると見えて予期通り吸収されなかった
 看護婦はこれだけ語って、このくらい重い病人の室へ入って、誰が悠々と身上話などを聞いていられるものかという顔をした。

(「友達」二十三)

じっくり検討するのも気が引けるが、えげつなく読者に想像をさせる描写である。
「滋養浣腸」なるものを、「上から」ではない箇所から行った。その具体的成分は牛乳と鶏卵を混和させた物。「腸」まで注がれたが吸収はされなかったと。ではその「牛乳と鶏卵の混和物」は、その後どうなったのかー

他にも上でふれた三沢のサディストぶりや、二郎の兄嫁に対する、(暗闇で)「嗅げば嗅がれるような気がした手捜りに捜り寄ってみたい」、最初から華奢な「」に注目していたー 

これらも、作者が谷崎潤一郎であったなら、もっとクローズアップしてとらえられたのではないか。登場人物達の欲望についてもっと真正面からとらえられたのではないか。


3、「こころ」「明暗」


通常の真面目な小説にはまず出てこない「浣腸」という文字が「行人」には出て来る。

「行人」以降の漱石作品についてだが、「こころ」の全文を読んだ人や、「明暗」の冒頭を読んだ人であれば、上記の文字と関連するエピソードがあることは知っているだろう。

他にも、妻と自身の弟とを宿泊させようとする長野一郎は、「こころ」の先生がまるで静と「K」を、後には静と「私」を、あえて仲良くさせたことと重なる。また精神的な加虐趣味は、「先生」ー「K」の間にも互いにあるように見える。「明暗」の登場人物にも同種の欲求を持った者がたくさんいると見える。

夏目漱石は、多数の病気を抱えており四十九歳で亡くなっている。

漱石は病苦との闘いを通じて、なにかを見出したのか。私にはまだよくわからない。考えていきたい。


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