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夏目漱石「行人」考察(34)お重はなぜ結婚できないのか



「行人」の主人公兼語り手:長野二郎の妹である「お重」。

物語途中から、お重の結婚相手を探している話が定期的にされているが、独身のまま話は終わる。お見合い等をした記述もない。


1、お重のプロフィール


二郎はお重について、顔も良く愛嬌もあるとしている。
体重はやや重く、年齢は二十歳頃と思われる。以下、それらの論拠を並べます。

綱(長野母)から言われていた三沢への縁談打診を二郎がしそびれた場面

 彼にはこういう風に、精神病の娘さんが、影身に添って離れないので、自分はかねて母から頼まれたお重の事を彼に話す余地がなかった。お重の顔は誰が見ても、まあ十人並以上だろうと、仲の善くない自分にも思えたが、惜い事に、この大切な娘さんとは、まるで顔の型が違っていた。

(「帰ってから」三十三)

(これは二郎に三沢の意向を聞く気がそもそもほとんどなかったようにも見えるが)

また、お重が芳江の面倒をよくみているとの描写

 芳江というのは兄夫婦の間にで出来た一人っ子であった。留守のうちはお重が引受けて万事世話をしていた。芳江は元来母や嫂に馴付いていたが、いざとなると、お重だけでも不自由を感じない程世話の焼けない子であった。自分はそれを嫂の気性を受けて生れたためか、そうでなければお重の愛嬌のあるためだと解釈していた

(「帰ってから」三)


ただし二郎によれば少し太っているようだ。「重」なだけに。
(「行人」の登場人物の名には全員意味があると私は考えている。「三沢」だけまだ不明だが)

 お重はつんとしてわざと鼻の先の八つ手の方を向いていた。母は又始まったという笑の裡に自分を見た。自分は又調戯たくなった。
「御客さまだと思うなら、そんな大きなお尻を向けないで、早く此処へ来てお坐りよ」
「蒼蠅いわよ」
「いったいこの暑いのに、一人で何処をほっつき歩いてたんだい」
「何処でも余計な御世話よ。ほっつき歩くだなんて、第一言葉使からして貴方は下品よ。――好いわ、今日坂田さんの所へ行って、兄さんの秘密をすっかり聞いて来たから」

(「塵労」二十六)


お重の年齢は不明だが、推察できる描写がある。上記の大きなお尻に続く二郎とのきょうだい喧嘩に対する綱(長野母)の注意

「お重御前は論理学でいうコントラジクション・イン・タームス、という事を知らないだろう」
「可くってよ。そんな高慢ちきな英語なんか使って、他が知らないと思って」
「もう二人とも止しにお為よ。何だね面白くもない、十五六の子供じゃあるまいし
母はとうとう二人を窘なめた。

(「塵労」二十六)

きょうだい喧嘩を叱る母の台詞が「十五六の子供じゃあるまいし」とあるのだから、十五六を数年以上前に超えた、若くとも二十歳頃だと思われる。


2、意外と鋭い?


このお重だが、二郎の語り口では「おしゃべりで好き勝手に話し倒す妹」のような雰囲気ではある。しかし二郎は実はお重が鋭そうなことも書いている。

お貞の結婚相手、佐野についてお重は非常に気にかけている。

 或日自分が外から帰って来て、風呂から上った所へ、お重が、「兄さん佐野さんて一体どんな人なの」と例の前後を顧慮しない調子で聞いた。これは自分が大阪から帰ってから、もう二度目若しくは三度目の質問であった。
「何だそんな藪から棒に。御前は一体軽卒で不可ないよ」
 怒り易いお重は黙って自分の顔を見ていた。
(略)
「全体貴方は何を研究して入らしったんです。佐野さんに就いて
 お重という女は議論でも遣り出すとまるで自分を同輩のように見る、癖だか、親しみだか、猛烈な気性だか、稚気だかがあった。
「佐野さんに就いてって……」と自分は聞いた。
佐野さんの人と為りに就いてです」
 自分は固よりお重を馬鹿にしていたが、こういう真面目な質問になると、腹の中でどっしりした何物も貯えていなかった。自分は済まして巻煙草を吹かし出した。お重は口惜しそうな顔をした。
「だって余まりじゃありませんか、お貞さんがあんなに心配しているのに
「だって岡田が慥だって保証するんだから、好いじゃないか」
「兄さんは岡田さんをどの位信用していらっしゃるんです。岡田さんは高が将棋の駒じゃありませんか
「顔は将棋の駒だって何だって……」
「顔じゃありません。心が浮いてるんです
 自分は面倒と癇癪でお重を相手にするのが厭になった。

(「帰ってから」八)

この点、二郎の認識でも、佐野について心配するのはむしろ普通なのだ。
大阪で佐野との会見を済ませた後の、一郎・綱との会話

「でも貞だけでも極まって呉れるとお母さんは大変楽な心持がするよ。後は重ばかりだからね」
「これもお父さんの御蔭さ」と兄が答えた。その時兄の唇に薄い皮肉の影が動いたのを、母は気がつかなかった。
「全くお父さんの御蔭に違ないよ。岡田が今ああ遣ってるのと同じ事さ」と母は大分満足な体に見えた。
 憐れな母は父が今でも社会的に昔通りの勢力を有っているとばかり信じていた。兄は兄だけに、社会から退隠したと同様の今の父に、その半分の影響さえむずかしいと云う事を見破っていた。
 兄と同意見の自分は、家族中ぐるになって、佐野を瞞している様な気がしてならなかった。けれども亦一方から云えば、佐野は瞞されても然るべきだという考えが始めから頭の何処かに引掛っていた。

(「兄」五)

改めて見直すと、この認識でいながら東京に帰ってからお貞をからかうだけだった(としか書いていない)二郎の気楽さに驚く。いや奇麗に考えれば二郎は元々佐野の内心を気に掛けていたが、事が決まった以上もう口を挟むわけにもいかず、楽しくお貞を送り出そうとしているのか。

どちらにせよお貞の結婚生活に大きく不安が残る。
佐野が目当てにしているであろう長野父の勢力は、既にかつての「半分さえ難しい」状態になっていると。

結婚後にそのことを佐野が知った場合、お貞に対しどういう態度になるか。
想像すると心配するのも普通だ。むろんだからといって二郎が縁談を壊すわけにもいかず、結婚直前のお貞に不安を吹き込むようなことも避けたいだろうけど。

(話がお重からそれるが、挙式当日にお貞が手に付けた白粉(おしろい)がすぐ流れてしまうのは(「帰ってから」三十六)、長野父の勢力のなさがすぐばれる暗示か。また二郎の下宿に二度届く岡田からの絵葉書で(「塵労・六、十七」後者が佐野の署名が今回はないともとれるような描写なのは既に不仲・離婚になった暗示か)

3、三沢への打診は相当なあせり?


お重の結婚について長野母(綱)は二郎に、三沢に貰う気があるかないかを探らせている(やはり長野家は長野父ではなく綱が主導だ)。

 自分はかねて母から頼まれて、この次若し三沢の所へ行ったら、彼にお重を貰う気があるか、ないか、それとなく彼の様子を探って来るという約束をした。

(「帰ってから」三十二)

3(1)三沢は綱に悪印象なはず


しかし、綱は三沢に悪い印象を持っているはずである。
大阪で入院中、三沢が二郎から金を借りて芸者の「あの女」に渡したことに呆れ、理解できないとしていた。またそれにより自分の息子が格下の岡田に金を借りたことに恥辱も感じていた。

 母は自分が三沢のために岡田から金を借りた顛末を聞いて驚いた顔をした。
そんな女のためにお金を使う訳がないじゃないか、三沢さんだって。馬鹿らしい」と云った。
「だけど、其処には三沢も義理があるんだから」と自分は弁解した。
義理々々って、御母さんには解らないよ、お前のいう事は。気の毒なら、手ぶらで見舞に行くだけの事じゃないか。もし手ぶらで極りが悪ければ、菓子折の一つも持って行きゃあ沢山だね」
 自分はしばらく黙っていた。
「よし三沢さんにそれだけの義理があったにした所でさ。何もお前が岡田なんぞからそれを借りて上げるだけの義理はなかろうじゃないか」

(「兄」七)


3(2)三沢はそこまで金持ちではない

また、三沢は旅行三昧であったし私から見れば相当な金持ちであろうが、特別裕福とまではいかないようだ。

「此処の払と東京へ帰る旅費位はどうかこうか持っているんだ。それだけなら何も君を煩わす必要はない」
 彼は大した物持の家に生れた果報者でもなかったけれども、自分が一人息子だけに、こういう点に掛けると、自分達より余程自由が利いた。

(「友達」二十八)

「誤解?」と彼は大きな声を出した。自分は仕方なしに黙った。彼はしきりにその親達の愚劣な点を述べたてて已まなかった。その女の夫となった男の軽薄を罵しって措なかった。仕舞にこう云った。
「何故そんなら始めから僕に遣ろうと云わないんだ。資産や社会的の地位ばかり目当にして……」

(「帰ってから」三十一)

後者の記述から、精神病の「娘さん」の嫁ぎ先は、三沢家よりもさらに金持ちであったことが読み取れる。

このように、綱の印象は悪く、また特段の金持ちとまではいかない三沢を、お重の結婚相手として綱が候補に挙げているのである。よほどお重の結婚が決まらずに焦っているのだろうか。

そして実際、綱が三沢の意向を探らせた「帰ってから・三十二」は秋から冬にかけての話だが、翌年の夏になってもお重はまだ独身である。ついでに二郎もだ。

当時のお見合い事情はよくわからないが、そんなに時間がかかるものなのだろうか。漱石の他作品「それから」の長井代助は、むしろ見合い話が何度も来てて面倒に感じていた、との印象だが。

しかもお重本人も、少なくとも言葉では早期の結婚を意図していた。それなのにである。

 兄妹として云えば、自分とお重とは余り仲の善い方ではなかった。自分が外へ出る事を、先第一に彼女に話したのは、愛情のためというよりは、寧ろ面当の気分に打勝たれていた。すると見る見るうちにお重の両方の眼に涙が一杯溜って来た。
「早く出て上げて下さい。その代り妾もどんな所でも構わない、一日も早くお嫁に行きますから」と云った。
 自分は黙っていた。
「兄さんは一旦外へ出たら、それなり家へ帰らずに、すぐ奥さんを貰って独立なさる積でしょう」と彼女が又聞いた。
 自分は彼女の手前「勿論さ」と答えた

(「帰ってから」二十四)


4、お重は三沢に気があった?


このように、何故かお重の結婚がいつまでも決まらない。
この理由付けとして私は勝手に思いついた。「お重は三沢に気があった」のではないかと。
そのため綱自身は三沢に悪印象を有していても、二郎に三沢の意向を探らせていたのでは。また他の縁談はお重が断っていたのではないか。

4(1)三沢に面識あり

ちなみに三沢とお重とは面識はある。よく見ると示されている。

三沢は時々来た。自分はある機会を利用して、それとなく彼にお重を貰う意があるかないかを探って見た。
「そうだね。あのお嬢さんもう年頃だから、そろそろ何処かへ片付ける必要が逼って来るだろうね。早く好い所を見付けて嬉しがらせて遣り給え」
 彼はただこう云っただけで、取り合う気色もなかった。自分はそれ限断念してしまった。

(「帰ってから」三十八)

あのお嬢さん」と話している以上、少なくともお重の顔は知っている関係であろう。また「もう年頃だから」とは、これも少なくともおおよその年齢は把握していると思われる。

4(2)Hともつながりあり

さらに、お重はどうもH(三沢の保証人)ともつながりがありそうだ。
物語中の六月二日、「富士見町の雅楽稽古所」で二郎が紹介予定女性の顔を見たことを把握している。しかも尾ひれつきで。

「何処でも余計な御世話よ。ほっつき歩くだなんて、第一言葉使からして貴方は下品よ。――好いわ、今日坂田さんの所へ行って、兄さんの秘密をすっかり聞いて来たから」
(略)
「御母さん、兄さんは妾達に隠れてこの間見合をなすったんですって」
(略)
 お重は六月二日の出来事を母や嫂に向ってべらべら喋舌り出した。それが中々精しいので自分は少し驚いた。何処からその知識を得て来たのだろうという好奇心が強く自分の反問を促した。けれどもお重はただ意地の悪い微笑を洩らすのみで、決して出所を告げなかった。
「兄さんが妾達に黙っているのは、屹度打ち明けて云い悪い訳があるからなのよ。ね、そうでしょう、兄さん

(「塵労」二十六・二十七)

この感じ、特に最後の「言いにくい訳があるんでしょ~」な雰囲気が、Hを思い出させる。
この少し前の時点で、Hはこの件で二郎をからかって遊んでいる。

「 ー だから君も好い加減に貰っちまったら好いじゃありませんか。器量は悪かないって話じゃないか。君には気に入らんのかね」
「気に入らんのじゃありません」
 Hさんは「はあ矢っ張気に入ったのかい」と云って笑い出した

(「塵労」二十三)

お重が二郎の話を聞いてきたという「坂田さんの所」が、なにであるかは全く不明である。
しかしHのからかいが「二十三」、お重の話が「二十六」からという近接したタイミングからしても、恋愛話が大好きな中年独身男・Hが、尾ひれをつけておしゃべりをし、それが「坂田」なる人物を通じてお重にまで推察される。

このように三沢と直接でも間接でもつながりがお重にあることからも、お重に三沢に気があるとの推察は可能である。


5、三沢がお重を断った理由


三沢は、「あの女」「娘さん」に対する執着や思い込みの深さから見ても、美人が大好きなはずである。

しかしその三沢が、美人なはずのお重の縁談はあっさり断っている。
その理由について思いついた事を、いくつか列挙してみる。また考察してみたい。

・一郎も二郎も精神を病み気味。その血筋がいやだった
・長野父の勢力の衰えを知っていた
・一郎、直、二郎の複雑な関係をなぜか知っていたので、そこに巻き込まれたくない
・実は以前にお重と関係を持ったことがあり、既に別れている

あるいは
・お重を美人だと思っているのは二郎だけだった

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