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夏目漱石「行人」考察(33)Hと一郎は「モテない同士」



夏目漱石の大正元年(1912年)連載開始の小説「行人」
この中に「H」と記述される謎の男が出て来る。

1、登場の遅さ


「行人」において、Hの名が出て来るのは物語前半であるが、実際に登場するのはかなり後半である。

まず、精神病の「娘さん」について二郎と一郎とが、大阪から和歌の浦へ向かう汽車内で話している場面

「そんな事があるんですか。三沢は接吻の事については一口も云いませんでしたがね。皆な居る前でですか、三沢が接吻したって云うのは」
「それは知らない。皆の前で遣ったのか。または外に人の居ない時に遣ったのか」
「だって三沢が只った一人でその娘さんの死骸の傍にいる筈がないと思いますがね。もし誰もそばに居ない時接吻したとすると」
「だから知らんと断ってるじゃないか」
 自分は黙って考え込んだ。
「一体兄さんはどうして、そんな話を知ってるんです」
Hから聞いた」
 Hとは兄の同僚で、三沢を教えた男
であった。そのHは三沢の保証人だったから、少しは関係の深い間柄なんだろうけれども、どうしてこんな際どい話を聞き込んで、兄に伝えたものだろうか、それは彼も知らなかった。

(「兄」十)

これが「H」の名が始めて出る場面、全465頁中の119頁である。

しかし、H本人が実際に登場するのは、かなり後だ。

Hさんは銘仙の着物に白い縮緬の兵児帯をぐるぐる巻き付けたまま、椅子の上に胡坐をかいて、「珍らしいお客さんを連れて来たね」と三沢に云った。丸い顔と丸い五分刈の頭を有った彼は、支那人のようにでくでく肥っていた。話振も支那人が慣れない日本語を操る時のように、鈍かった。そうして口を開くたびに、肉の多い頬が動くので、始終にこにこしているように見えた。 

(「塵労」十四)

これがHの初登場。全465頁中の362頁だ、名の登場から243頁後にようやく姿を現したのである。

それにしても、語り手である二郎はかなり強烈にHの太り具合を描写している。
これに対して長野一郎は痩せている。

兄は性来の痩っぽちであった。宅ではそれをみんな神経の所為にして、もう少し肥らなくっちゃ駄目だと云い合っていた。その内でも母は最も気を揉もんだ。当人自身も痩せているのを何かの刑罰のように忌み恐れた。それでも些とも肥れなかった。

(「兄」八)

終盤の一郎とHとの二人旅は、痩せ過ぎな一郎と、「でくでく太った」Hとのコンビということだ。きっと人目をひいたであろう。


2、一郎とは古い付き合い


引用したように、名前のみが登場した時点ではHは、一郎の「同僚」とのみ説明されていた。
また登場以降もそれを前提として話は進んでいた。

ところが物語の終盤近くになって、唐突に単なる同僚ではないことが明かされる。
終盤の一郎とHとの旅行、まず沼津に泊まった初日の夜

貴方は御存じだかどうだか知りませんが、私は学校にいた時分、これでよく兄さんと碁を打ったものです。その後二人とも申し合せたように、ぴたりと已めてしまいましたが、この場合、二人が持て余している時間を、面白く過すには碁盤が屈強の道具に違なかったのです。

(「塵労」三十)

全465頁中の405頁目で、はじめて一郎とHが学友であったと明かされるのである。

同じく沼津での二日目の朝、砂浜の上を二人で歩いている際

「君近頃神というものに就て考えた事はないか」
 私は仕舞にこういう質問を兄さんに掛けました。私が此処でとくに「近頃」と断ったのは、書生時代の古い回想から来たものであります。その時分は二人共まだ考えの纏まらない青二才でしたが、それでも私は思索に耽り勝な兄さんと、よく神の存在に就いて云々したものであります。序だから申しますが、兄さんの頭はその時分から少し外の人とは変っていました。

(「塵労」三十四)

ここでもう一度学友であることが念押しされる。
また終盤までほとんど知らされなかった、「一郎の学生時代」についても語られている。

やはり二郎は「信頼できない語り手」である。「行人」は、このHの手紙もすべて読み終わった数年後頃に、二郎が第三者に見せる前提で記したもの、という設定である。そのため二郎は当然「Hと一郎が古い付き合い」であると把握しておきながら、「兄の同僚」としか示さなかった。むろん二郎は嘘は付いていない。


3、Hは独身?


Hが独身か否か、あるいは離婚経験者か、子はいるかいないかにつき、明記はない。
しかしおそらく独身ではないかと思われる会話はされている。
終盤、お貞の話題で一郎からこう言われている。

「君は結婚前の女と、結婚後の女と同じ女だと思っているのか」
 こうなると私にはおいそれと返事が出来なくなります
。平生そんな事を考えて見ないからでもありましょうが。今度は私の方が飯を二口三口立て続けに頬張って、兄さんの説明を待ちました。
「嫁に行く前のお貞さんと、嫁に行ったあとのお貞さんとはまるで違っている。今のお貞さんはもう夫の為にスポイルされてしまっている」
「一体どんな人のところへ嫁に行ったのかね」と私が途中で聞きました。
どんな人のところへ行こうと、嫁に行けば、女は夫のために邪になるのだ。そういう僕が既に僕の妻をどの位悪くしたか分らない。自分が悪くした妻から、幸福を求めるのは押が強過ぎるじゃないか。幸福は嫁に行って天真を損われた女からは要求出来るものじゃないよ
 兄さんはそういうや否や、茶碗を取り上げて、むしゃむしゃてこ盛の飯を平らげました。

(「塵労」五十一)

既婚者が独身者に言って聞かせるような内容ではある。

また上の「塵労・十四」を含め二郎がH宅を訪れる場面は二度あるが(「塵労・二十二」)、どちらも妻子がいるような様子はなさげだ。

さらに物語中の3月23日には、一郎と共通の友人らしい「K」の結婚披露宴にも、Hは妻とではなく一人で出席したような描写がされている(「塵労」十五)。


4、Hは恋話が大好き


Hの特徴だが、恋愛話が大好きなのである。

その点では、霊だ魂だスピリットだ、メレジスだパオロだフランチェスカだ永遠の勝利者だと語り出す一郎と、よく似ている。

それで友達になったのか。

上でも引用したHの名が最初に出て来る会話

 ー すると兄は急に気乗りのした様な顔をして、「その話なら己も聞いて知っている。三沢がその女の死んだとき、冷たい額へ接吻したという話だろう」と云った。
 自分は喫驚した。
(略)
「一体兄さんはどうして、そんな話を知ってるんです」
Hから聞いた」
 Hとは兄の同僚で、三沢を教えた男
であった。そのHは三沢の保証人だったから、少しは関係の深い間柄なんだろうけれども、どうしてこんな際どい話を聞き込んで、兄に伝えたものだろうか、それは彼も知らなかった。

(「友達」十)

ここで二郎がわざわざ「(Hは)どうしてこんな際どい話を聞き込んで、兄に伝えたものだろうか」と疑念を呈している。単に三沢と関係が深いから聞いた、というわけではなさそうだ。
Hが三沢にしつこく聞き込んだのだろうか。それとも妄想か、あるいは誇張しているのか。

ここだけならまだなんとも言えないが、同様な怪しい箇所が他に三つある。

まず二郎の二度目の来訪時

「君の縁談はどうなりました。この間三沢が来て、好いのを見付けて遣ったって得意になっていましたよ」
「ええ三沢も随分世話好ですから」
「ところが万更世話好ばかりで遣ってるんでもないようですよ。だから君も好い加減に貰っちまったら好いじゃありませんか。器量は悪かないって話じゃないか。君には気に入らんのかね
「気に入らんのじゃありません」
 Hさんは「はあ矢っ張気に入ったのかい」と云って笑い出した

(「塵労」二十三)

Hは他人の異性関係を茶化して楽しんでいる。

一郎との旅行中も似たような感じだ。紅が谷(鎌倉市)の夜

 一昨日の晩は二人で浜を散歩しました。
(略)
二三間離れた私にはそれが分らないくらい四囲が暗いのでした。けれども時節柄なんでしょう、避暑地だけあって人に会います。そうして会う人も会う人も、必ず男女二人連に限られていました。彼らは申し合せたように、黙って闇の中を辿って来ます。だから忽然私たちの前へ現われるまでは、まるで気がつかないのです。彼らが摺り抜けるように私たちの傍を通って行く時、眼を上げて物色すると、どれもこれも若い男と若い女ばかりです。私はこういう一対に何度か出合いました。

(「塵労」四十九)

夜間にすれ違う男女の顔を毎度毎度「物色」してチェックしてると。
それも女の顔だけでなく男女双方ともの顔をじろじろ見ていると。このHは他人の色恋事を観察するのが大好きなのだ。

同じく紅が谷

君はそのお貞さんとかいう人と、こうして一所に住んでいたら幸福になれると思うのか
 (略)
「僕はお貞さんが幸福に生れた人だと云った。けれども僕がお貞さんのために幸福になれるとは云やしない」
 兄さんの言葉は如何にも論理的に終始を貫いて真直に見えます。けれども暗い奥には矛盾が既に漂よっています。兄さんは何にも拘泥していない自然の顔をみると感謝したくなる程嬉しいと私に明言した事があるのです。それは自分が幸福に生れた以上、他を幸福にする事も出来ると云うのと同じ意味ではありませんか。私は兄さんの顔を見てにやにやと笑いました。兄さんはそうなると只では済まされない男です。すぐ食い付いて来ます。
「いや本当にそうなのだ。疑ぐられては困る。実際僕の云った事は云った事で、云わない事は云わない事なんだから(略)君は結婚前の女と、結婚後の女と同じ女だと思っているのか」
 こうなると私にはおいそれと返事ができなくなります。

(「塵労」五十一)

どうだろう。一昔前の男子中高生が友達を「お前あの女の事が好きなんじゃねえの~? 照れてないで告白しろよ~」とかやってるのを想起しなかっただろうか。

それに対して一郎が、「女を知らない奴がおかしな事言ってるなよ」と、上から言い返したようにみえる。
ちなみに一郎はこれより以前、「女景清」の話の際、男女論について客2人、父、二郎の前で自説を披露したところ、その場で唯一の女性である直からすぐさま不同意を示されたことがある(「帰ってから」十九)。
その時とは逆に、Hに対しては一郎が男女論を諭す側の立場になれた。

ちなみにその一郎もあまり女性にモテるようには思えない。実際に直にもててなくて苦しみ、パオロとフランチェスカだ霊だスピリットだ結婚したら女はみな邪だとポエムに走っている。むろん私が人の事を言えた義理ではない。


5、一郎とHは「モテない友達」


ここまで書いてきて思った。
一郎とHとは、「モテない友達」であると。女にモテてない同士だから仲良くなったと。

5(1)モテなさそうな一郎とH

痩せ過ぎの一郎、太り過ぎのH

一郎は恋愛に関して実際ではなく観念的な話に走ってばかり。さらには弟(おそらく半血)と自身の妻との不貞を妄想しないといけないほどに、妻の冷淡さに苦しんでそれをどうにもできない。

Hはおそらく独身、結婚経験もない。かつ既にいい年齢であろうに他人の恋愛話を誇張したり茶化したりして楽しむという、私とほぼ同じレベルの男

モテない、だけど女性大好き、色恋事の「話」も大好き。これらを共通点として、学生時代の一郎とHは仲良くなったのではないか。

5(2)共通の友人「K」もモテない

上でもふれたが物語中の3月23日、一郎の知人である「K」の結婚披露宴が行われた。そこにHも出席していた。

 - Hさんは首を捻った。
「そりゃ少し妙ですね、そんな筈はなさそうだがね」
 彼の不審は決して偽とは見えなかった。彼は昨日Kの結婚披露に兄と精養軒で会った。そこを出る時にも一所に出た。話が途切れないので、浮か浮かと二人連立って歩いた。仕舞いに兄が疲れたといった。Hさんは自分の家に兄を引張って行った。

(「塵労」十五)

しかしその「K」、随分と遅い結婚だったようである。

 父は立ち留って木の間にちらちらする旗の色を眺めていたが、やがて気の付いた風で、「今日は二十三日だったね」と聞いた。その日は二十三日であった。そうしてKという兄の知人の結婚披露の当日であった。
「つい忘れていた。一週間ばかり前に招待状が来ていたっけ。一郎と直と二人の名宛で」
Kさんはまだ結婚しなかったのですかね」
「そうさ。善く知らないが、まさか二度目じゃなかろうよ

(「塵労」八)

この「K」の遅い結婚のエピソードが挿入されたことに意味を見出すのであれば、一郎とHの共通の知人は、あまり女性にモテない男であると、提示したことではないだろうか。

5(3)一郎は自分よりもさらにモテないからHと仲良くなった?


こうして勝手な考えをめぐらし、かつお貞がらみでの「君は結婚前の女と、結婚後の女と同じ女だと思っているのか」との、現代で言うマウンティングとも思える一郎の台詞も合わせて考えると、次の邪推も浮かんだ。

一郎は、「こいつは俺よりもさらにモテないな」と確信しているから、Hと仲良くできるのでは、と。

自分よりも直と仲良さげに見える二郎とは、一郎は不仲になってしまった。
しかしHが相手なら、モテない事に劣等感や嫉妬を感じる心配はないと。むしろ普段モテなくて苦しんでいる俺でも、この男相手であればマウンティングできるぞと。

そう思うと、下記のHの、二郎に向けた妙に自慢げな言葉は、ちょっと違う意味に聞こえる。

 ー 然し事実私は今兄さんとこうして差向いで暮していながら、さほどに苦痛を感じてはいないのです。少くとも傍で想像するよりは余程楽なのだろうと考えています。そうしてそれを何故だと聞かれたら、一寸返答に差支えるのです。貴方も同じ兄さんに就いて同じ経験をなさりはしませんか。もし同じ経験をなさらないならば、骨肉を分けた貴方よりも、他人の私の方が、兄さんに親しい性質を有って生れて来たのでしょう。親しいというのは、ただ仲が好いと云う意味ではありません。和して納まるべき特性をどこか相互に分担して前へ進めるという積なのです。

(「塵労」四十六)

外見差別的な内容であることを承知で念押しする。想像してみよう。
上記の「私の方が兄さんに親しい~和して納まるべき特性」と得意げに自分語りしている中年男は「でくでく肥って」いるのだ。しかもたぶん独身。
さらにこれは手紙であるが、実際にHが前にいたら、この話振りは「慣れない日本語を操る時のように鈍(にぶ)」く、「口を開くたびに肉の多い頬が動」いているのである。

想像して下さい。
モテなさそうではなかったですか?

私がいえた義理ではないですけれど。

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