夏目漱石「行人」考察 芳江は直と一郎の子ではない?(8)―2 なぜか離婚されない直


1、小姑にも堂々と喧嘩を売る嫁・直


前回の記事で、直があまりに堂々と夫・一郎との不仲を、家族や客に隠さずにいることを書いた。

さらに直は、小姑であるお重にも、堂々と喧嘩を売っている。
前にも引用したが

「おや今日はお菓子を頂かないで行くの」とお重が聞いた。芳江は其処に立ったまま、どうしたものだろうかと思案する様子に見えた。嫂は「おや芳江さん来ないの」とさも大人しやかに云って廊下の外へ出た。今まで躊躇していた芳江は、嫂の姿が見えなくなるや否や、急に意を決したものの如く、ばたばたとその後を追駈けた。
 お重は彼女の後姿をさも忌々しそうに見送った。父と母は厳格な顔をして己れの皿の中を見詰めていた。お重は兄を筋違いに見た。けれども兄は遠くの方をぼんやり眺めていた。尤も彼の眉根には薄く八の字が描かれていた。

(略)
 東京へ帰ってから自分はこんな光景をしばしば目撃した。父も其処には気が付いているらしかった。けれども一番心配そうなのは母であった。彼女は嫂の態度を見破って、かつ容赦の色を見せないお重を、一日も早く片付て若い女同士の葛藤を避けたい気色を色にも顔にも現した。次には成るべく早く嫁を持たして、兄夫婦の間から自分という厄介ものを抜き去りたかった。
(略)
 お重は益嫂を敵の様に振舞った。

(「帰ってから」七)
(※ 著作権切れにより引用自由です。)

さらに、二郎とお重との会話でも一郎-直夫妻の不仲や、直-重の対立は前提とされ、直と直接の会話でもお重は泣かされている。

「お前は嫂さんに抵抗し過ぎるよ」
「当前ですわ。大兄さんの妹ですもの」

(略)
「何だって、そんなに人を馬鹿にするんです。これでも私は貴方の妹です。嫂さんはいくら貴方が贔屓にしたって、もともと他人じゃありませんか」
 自分は髪剃を下へ置いて、石鹸だらけの頬をお重の方に向けた。
「お重お前は逆せているよ。お前が己の妹で、嫂さんが他家から嫁に来た女だ位は、お前に教わらないでも知てるさ」
「だから私に早く嫁に行けなんて余計な事を云わないで、あなたこそ早く貴方の好きな嫂さんみた様な方をお貰いなすったら好いじゃありませんか」
 自分は平手でお重の頭を一つ張り付けて遣りたかった。
(略)

 お重は明らかに嫂を嫌っていた。これは学術的に孤独な兄に同情が強いためと誰にも肯ずかれた。
(略)

「お重さんこれお貞さんのよ。好いでしょう。あなたも早く佐野さんみた様な方の所へ入らっしゃいよ」と嫂は縫っていた着物を裏表引繰返して見せた。その態度がお重には見せびらかしの面当の様に聞えた。早く嫁に行く先を極て、こんなものでも縫う覚悟でもしろという謎にも取れた。何時まで小姑の地位を利用して人を苛虐めるんだという諷刺とも解釈された。最後に佐野さんの様な人の所へ行けと云われたのが尤も神経に障った。
 彼女は泣きながら父の室に訴えに行った。父は面倒だと思ったのだろう。嫂には一言も聞糾さずに、翌日お重を連れて三越へ出掛た。

(「帰ってから」八ないし十)
(いままで気付かなかったが、「父は面倒だと思ったのだろう。嫂には一言も聞糾さずに、~」とあるが、二郎は父と直との会話をどう把握したのだろうか? 一言も問いただしていないと言い切れるのは?)


直はえらい強気だなと感じないだろうか。
夫の実家で義理の両親らと同居しているにもかかわらず、堂々と小姑であるお重と対立し、それを特に改善しようともしていないのである。
またお重から見てもまるわかりになるほどに、一郎とは不仲になっているのである。

二郎とお重との
「お前は嫂さんに抵抗し過ぎるよ」
「当前ですわ。大兄さんの妹ですもの」

この会話や
二郎の「お重は明らかに嫂を嫌っていた。これは学術的に孤独な兄に同情が強いためと誰にも肯ずかれた。」からは、一郎と直は単に仲がよくないという次元など既に通り越しており、もはや対立・敵対関係にまで至っていると思われる。
少なくともお重は口に出すまでもない大前提としてそう認識しており、かつ二郎もその前提を否定せずに受け入れている。

それほどまでに直は一郎との不仲を隠さず露骨に示しているのである。
しかもそれに加えて、同居の小姑まで泣かせているのである。

夫実家側との不仲・対立を、あまりにおそれなさすぎではないだろうか。

2、堂々と夫の弟といちゃつく直


・一郎「直は御前に惚てるんじゃないか」(「兄」十八)
・お重「あなたこそ早く貴方の好きな嫂さんみた様な方をお貰いなすったら好いじゃありませんか」(「帰ってから」九)
・二郎「御母さんの前ですが、兄さんと姉さんの間ですね。あれには色々複雑な事情もあり、又僕が固から少し姉さんと知り合だったので、御母さんにも心配を懸けて済まない様ですけれども、」(「帰ってから」二十)
・三沢「君がお直さんなどの傍に長く喰付いているから悪いんだ」(「帰ってから」二十三)

二郎と直との関係についての各人の発言である。
直は、夫である一郎に対しては周囲に堂々と不仲・対立を見せながら、二郎とは逆に、堂々と周囲にわかるほどに仲良くしているのである。
しかも、夫・義母・小姑らが揃って、直と二郎との関係性を疑うほどにである。何故か三沢までもそのことを知っている。そして当の二郎自身でも家族らから疑われている自覚は当然ある。

直は何故こうも、同居の夫家族らから疑われ嫌悪されるような真似を、堂々とできるのであろうか。

離婚をまったくおそれていないのだろうか。
いやむしろ望んでいるのか?

それにしては直からも離婚は切り出していない。


3、何故、一郎も直も離婚を切り出さない?


「御前メレジスという人は知ってるか」
「名前だけは聞いています」

(略)
「その人の書翰の一つのうちに彼はこんな事を云っている。――自分は女の容貌に満足する人を見ると羨ましい。女の肉に満足する人を見ても羨ましい。自分はどうあっても女の霊というか魂というか、所謂スピリットを攫まなければ満足が出来ない。それだからどうしても自分には恋愛事件が起らない」
「メレジスって男は生涯独身で暮したんですかね」

(「兄」二十)

私は昔、ここを最初に読んだ時は、二郎の「メレジスって男は生涯独身で暮したんですかね」は「ボケ」だと感じた。一郎の真面目な会話を茶化すような。
しかし最近では、これは「ツッコミ」だと思うようになった。
作者・夏目漱石が「これボケじゃなくてツッコミだぞ。気づいてくれよな」と、言っているのではないかと。

霊だ魂だ所謂スピリットだとさも大業かのように語っているが、それで深刻に悩むぐらいだったら女と関わらなきゃええやん、それで終わる話やん、と。

そう、一郎が直との関係に悩み、精神や神経を悩ませているのであれば、とっとと離婚か別居でもすりゃいいのでは、ということである。

しかし、一郎も、長野一家も、岡田やHも、なぜか離婚についてはまったく口にも出さないし、想起もしていないのである。ただ一か所を除いて。

「二郎、お前は現在も未来も永久に、勝利者として存在しようとする積だろう」と彼は最後に云った。
(略)
 自分はとうとう仕舞まで一言も云わずに兄の言葉を聞くだけ聞いていた。そうしてそれ程疑るなら一層嫂を離別したら、晴々して好かろうにと考えたりした。

(「帰ってから」二十八)

これまでふれたように、直は一郎との不仲や対立を堂々と一郎家族に見せつけ、お重とも対立し、そのくせ二郎とは露骨に仲良くしている。
これによって、一郎は精神を病んでしまったようであり、またお綱(長野母)も随分と心を痛めている様子である。

なのに、何故か一郎も長野両親も、離婚話も別居話も出さないのである。一度も。

一郎の精神状態は、直と離婚してもう一切関わり合いを持たなければ治るのではないか、少なくともその可能性はあるのではないか。「一層嫂を離別したら、晴々して好かろうに」と。
なのに、この一か所を除いて、誰もふれない。

Hの手紙でも、離婚話は一切出てこない。

これもまた、これまでみたように、大阪旅行の不自然さや芳江の存在について、「一回だけふれておきながらそれ以外は不自然に全くふれられない」という「行人」のパターンではないか。

なにか離婚できない事情があるのではないか。
なのにその離婚できない事情についてはふれることが憚られるのではないか。

ちなみに三沢に「早く帰って来て頂戴ね」と言っていた「精神病の娘さん」は、「一年経つか経たないうちに、夫の家を出る事になった」とされており三沢の言では「離婚になった後でも~」ということだから(「友達」三十三)、単なる別居ではなく離婚もしているようである。

その娘さんは夫とあっさり離婚しているようなのに、何故一郎と直は、本人も、周囲も、離婚話を出さないのか。

直か、直実家にとんでもない弱みを握られている?

しかし、直から離婚を口にしないのは、、、?



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