夏目漱石「行人」考察 芳江は直と一郎の子ではない?(8)―1 なぜか離婚されない直

1、堂々と不仲をみせつける嫁・直


「あれだから本当に困るよ」と母が云った。
(略)
―― 直の方から少しは機嫌の直るように仕向けて呉れなくっちゃ困るじゃないか。あれを御覧な、あれじゃまるで赤の他人が同なじ方角へ歩いて行くのと違やしないやね。なんぼ一郎だって直に傍へ寄って呉れるなと頼みやしまいし」
 母は無言のまま離れて歩いている夫婦のうちで、唯嫂の方にばかり罪を着せたがった。これには多少自分にも同感な所もあった。

(「兄」十三)
(※ 著作権切れにより引用自由です。)

和歌の浦で、一郎、直、二郎、母の4人が海辺を散歩している際の描写である。

長野家に嫁いできた嫁である直は、同居の姑・同居の義弟の前で、堂々と夫・一郎との不仲を示しているのである。姑が「本当に困るよ」と口に出すほどに。

さらに母と二郎との直に対する批評が続く。「兄 十四」では

「たとい何か考えているにしてもだね。直のほうがああ無頓着じゃ片っ方でも口の利きようがないよ。まるでわざわざ離れて歩いているようだもの」
 兄に同情の多い母から見ると、嫂の後姿は、如何にも冷淡らしく思われたのだろう。

(略)
 自分の見た彼女は決して温かい女ではなかった。けれども相手から熱を与えると、温め得る女であった。持って生れた天然の愛嬌のない代りには、此方の手加減で随分愛嬌を搾り出す事の出来る女であった。自分は腹の立つ程の冷淡さを嫁入後の彼女に見出した事が時々あった。けれども矯め難い不親切や残酷心はまさかにあるまいと信じていた。
(略)
(※ いま気付いたが、「腹の立つ程の冷淡さを嫁入後の彼女に見出した」とは、嫁入り前の直にはそこまでの冷淡を感じたことがない、と二郎は言っているのだ)

「だから妾には直が一郎に対してだけ、わざわざ、あんな風をつらあてがましく遣っている様に思われて仕方がないんだよ」
「まさか」
 自白すると自分はこの問題を母程細かく考えていなかった。従ってそんな疑いを挟さむ余地がなかった。あってもその原因が第一不審であった。


このように、少なくとも姑である綱の認識で「わざわざ面当てで不仲を示している」とされるほどの態度を、直は堂々と取っていることになる。

上記は和歌山旅行中だが、帰宅後も家庭内で、直は堂々と一郎を軽んじるような態度を示す。夫の家族らの前でだ。

―― お貞さんは生れ付からして直とはまるで違ってるんだから、此方でもその積で注意して取り扱って遣らないと不可ません・・・」
 兄の説明を聞いた母は始めて成程と云ったように苦笑した。もう食事を済ましてした嫂は、わざと自分の顔を見て変な眼遣いをした。

(略)
 嫂は無言のまますっと立った。室の出口で一寸振り返って芳江を手招きした。芳江もすぐ立った。
「おや今日はお菓子を頂かないで行くの」とお重が聞いた。芳江は其処に立ったまま、どうしたものだろうかと思案する様子に見えた。嫂は「おや芳江さん来ないの」とさも大人しやかに云って廊下の外へ出た。今まで躊躇していた芳江は、嫂の姿が見えなくなるや否や、急に意を決したものの如く、ばたばたとその後を追駈けた。
 お重は彼女の後姿をさも忌々しそうに見送った。父と母は厳格な顔をして己れの皿の中を見詰めていた。お重は兄を筋違いに見た。けれども兄は遠くの方をぼんやり眺めていた。尤も彼の眉根には薄く八の字が描かれていた。

(略)
 東京へ帰ってから自分はこんな光景をしばしば目撃した。
(略)
 お重は益嫂を敵の様に振舞った。

(「帰ってから」七)

もし自分がこの食卓に居合わせたらと想像すると気が重くなる。
ここで、確かに一郎のほうからお貞と直を比較して、「生れ付からして直とはまるで違ってるんだから」と当てこすりっぽいことを口にしたのがきっかけだが(しかし生まれ付き?のなにがどう違うのだろう?)、それにしても同居の舅、姑、義弟、小姑の目の前で堂々と夫への不機嫌を表明して無言で去ろうとするのもかなり強気である。

(いま気付いたが、直の、「おや芳江さん来ないの」は直前のお重の、「おや今日はお菓子を頂かないで行くの」への嫌味になっているんだな。気づかなかったです。)

かつ、二郎によればこのような状況が「しばしば」あると。

さらに直は、客の前で一郎の男女論を一蹴している。

「男は情慾を満足させるまでは、女よりも烈しい愛を相手に捧げるが、一旦事が成就するとその愛が段々下り坂になるに反して、女の方は関係が付くとそれからその男を益慕う様になる。(略)
「妙な御話ね。妾女だからそんなむずかしい理窟は知らないけれども、始めて伺ったわ。随分面白い事があるのね」
 嫂がこう云った時、自分は客に見せたくないような厭な表情を兄の顔に見出したので、すぐそれを胡麻化すため何か云って見ようとした。すると父が自分より早く口を開いた。

(「帰ってから」十九)

これは長野父のもとに客が二人訪れ、さらに一郎、直、二郎がいる場で父が「盲目の女」の話を聞かせた際の発言である。

この時一郎は、父や弟、さらに客が二人といういわば「人前」な状況で、しかも学者である自分が男女論・恋愛論を論じてみせたのである。しかしそれをすぐさま妻・その場に唯一いた女性に否定されるような返しで潰された。面目丸つぶれであろう。

無論厳密には直は一郎の論を否定はしていない。しかし何一つ肯定や同意をしない旨を、内心で納めずに人前でわざわざ表明したとはいえるだろう。それも間髪入れずにだ。あるいは直が一郎に対し「あなたが男女の仲についてわかったような講釈を人前で語るなんて滑稽だわ」と見下したとも思える。


しかしなぜ、直はこんな堂々となんのためらいもなく、人前・夫の家族の前で不仲や侮蔑を堂々と表明できるのか?

「この夫は私を離婚できない」さらに、
「この夫実家は私を離婚できない」と確信しているからではないだろうか。

実際、一郎は直と二郎の仲を疑い、直のことで散々煩悶し、メレジスだパオロだフランチェスカだ霊だ魂だスピリットだ永久の敗北者だと言い、Hからの手紙ではDVもしているのに、離婚に動いた形跡はない。

なにか直にとんでもない秘密を握られている?

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