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夏目漱石「行人」考察(53)一郎は「腑抜け」?

(※ noteに不具合があったので、下記リンクにほぼ同内容を再掲しています)


(画像は岩波文庫の書籍・アマゾン)



夏目漱石の大正元年(1912年)連載開始の小説「行人」。

いきなりこの場でこんな話をするのは少し憚りがあるが、長野一郎は「膣内射精障害」ではないか。

冗談ではなく普通にそう思った。

1、一郎は他人とはできない?


前から私はこう推測している。

「芳江は一郎と直夫妻の子ではなく、直側の親族から養子をもらった。理由は一郎の男性不妊・不能・自分ではできるが他者とはできない等。その秘密を直に握られておりまた直の実家側が本家筋なので長野家側からは離婚できない」と。


1(1)一郎へのあてはめ

「膣内射精障害」について、ど素人の私が勝手にわかったつもりで語ると以下のとおりである。

「EDや性的不能とは異なり自身での行為はできるし射精もする。しかし他人との性行為となると、なかなか状態が維持できず、射精まで持ち込めない。原因は精神的疲労、他人と行為することのプレッシャー、自身での行為に慣れ過ぎたこと等」

この点を一郎にあてはめる。
神経を病んでいるのは自他ともに認めるところである。
また、メレジスだパオロとフランチェスカだ霊も魂もスピリットもだ永遠の勝利者だなどと女性絡みで自身の世界に深く没頭しており、なんとなく独自の強固なソロ活動スタイルを確立していそうである。
それでいて女性の扱いに慣れている様子はない。
また他者との関係とともに「長男だから子づくりしないといけない」とのプレッシャーもありそうだ。

1(2)「こころ」の先生も


念のために夏目漱石先生を持ち出すが私が勝手に一人で上記の話題に固執しているのではない。「こころ」の「先生」も原因は一郎と違うかもしれないが匂わす発言をしている。

「子供でもあると好いんですがね」と奥さんは私の方を向いていった。私は「そうですな」と答えた。しかし私の心には何の同情も起らなかった。子供を持った事のないその時の私は、子供をただ蒼蠅いもののように考えていた。
「一人貰ってやろうか」と先生がいった。
「貰ッ子じゃ、ねえあなた」と奥さんはまた私の方を向いた。
子供はいつまで経ったってできっこないよ」と先生がいった
 奥さんは黙っていた。「なぜです」と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」といって高く笑った

(「こころ・上 先生と私」八)

 妻はある時、男の心と女の心とはどうしてもぴたりと一つになれないものだろうかといいました。私はただ若い時ならなれるだろうと曖昧な返事をしておきました。妻は自分の過去を振り返って眺めているようでしたが、やがて微かな溜息を洩らしました。

(「こころ・下 先生と遺書」五十四)

(※ 著作権切れにより引用自由です。)


2、謎のカッコ書き


書いたように私は前々から「一郎はなんらかの原因で子ができない」と推測していたが、今回それを示すような「括弧書き」に今更ながら気付いた。

終盤、Hからの手紙に出て来る一郎の言葉。小田原での会話である

「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」
(略)
「しかし宗教にはどうも這入れそうもない。死ぬのも未練に食いとめられそうだ。なればまあ気違だな。しかし未来の僕はさておいて、現在の僕は君正気なんだろうかな。もうすでにどうかなっているんじゃないかしら。僕は怖くてたまらない」
(略)
「椅子ぐらい失って心の平和を乱されるマラルメは幸いなものだ。僕はもうたいていなものを失っている。わずかに自己の所有として残っているこの肉体さえ、(この手や足さえ、)遠慮なく僕を裏切る位だから」
 兄さんのこの言葉は、好い加減な形容ではないのです。

(「塵労」三十九)

この「かっこ書き」は原文ママである。

そもそも、この書き方自体不自然である。
地の文での括弧書きはわかる。以下のように。

 ー 兄は常に変わらない様子をして、(嫂に評させると常に変わらない様子を装って、)「二郎一寸話がある。彼方の室へ来て呉れ」と穏かに云った。

(「兄」四十二)

このような書き方であれば、注目はするが不自然はない。

しかし上記のHの手紙は、「」で表記する以上は、一郎の発言をそのまま記すべきところに、何故か括弧書きがされているのである。当たり前だが一郎が文章を一字一句読み上げチェックで「このにくたいさえ かっこ このてやあしさえ かっことじ えんりょなくー」と発言したわけではないだろう。

また発言内容をそのまま丸写しで記すとおかしくなるのであれば、普通に地の文で書けばよいだけである。
実際この少し前ではHは発言を直接書かず、概略をまとめて地の文で記している。

私はその時始めて兄さんの口から、彼がただに社会に立ってのみならず、家庭にあっても一様に孤独であるという痛ましい自白を聞かされました。兄さんは親しい私に対して疑念を持っている以上に、その家庭の誰彼を疑っている様でした。兄さんの眼には御父さんも御母さんも偽の器なのです。細君は殊にそう見えるらしいのです。

(「塵労」三十七)

これは、Hもしくは夏目漱石があえて、「」+() という書き方を取ったものと解釈すべきだ。なのでそこに注目してみる。

文を見ると「肉体」と書いてから、「(手や足)」をわざわざ後付けで特記している。
これは逆に、実は手や足以外の「肉体」こそが、最も「遠慮なく」長野一郎を「裏切っている」ことを暗に示しているのではないか。
つまりあれだ。そらもうあれよ


3、「腑抜け」


そう思ってみると、直と二郎とのこの会話・この単語が、全く違う意味に聞こえてしまう。
和歌山の料理屋で二人きりの会話

「だってそりゃ無理よ二郎さん。妾馬鹿で気がつかないから、みんなから冷淡と思われているかも知れないけれど、これで全くできるだけの事を兄さんに対してしている気なんですもの。――妾ゃ本当に腑抜(ふぬけ)なのよ。ことに近頃は魂の抜殻になっちまったんだから」
「そう気を腐らせないで、もう少し積極的にしたらどうです
積極的ってどうするの。御世辞を使うの。妾御世辞は大嫌いよ。兄さんも御嫌いよ」
「御世辞なんか嬉しがるものもないでしょうけれども、もう少しどうかしたら兄さんも幸福でしょうし、姉さんも仕合せだろうから……」

(「兄」三十一)

前にも、直の台詞から私が勝手に松本零士のあまり有名でないマンガ「聖凡人伝」を思い出した話を書いた。

また思い出してしまった。あの漫画、主人公の住むおんぼろアパートの隣室には、セックスコンサルタントを職業としているハゲたおじさんが住んでおり毎日のように人妻たちが通っているのである。

あと今使用例を確認したが見当たらなかったが、私の記憶ではテレビ時代劇において、いわゆるEDのことを「ふぬけ」と称していた。戦国武将を篭絡しようとして失敗したスパイの女が「殿様ふぬけやないかー!」と怒っていた。

上記の直の台詞も、それが暗に示されていないだろうか。
それに続く会話も、そういう目で見てしまうとそう見えてくる。

さらに「ふぬけ」は続く。

「だから先刻から云ってるじゃありませんか。私が冷淡に見えるのは、全く私が腑抜のせいだって」
そう腑抜をことさらに振り舞わされちゃ困るね。誰も宅のものでそんな悪口を云うものは一人もないんですから」

(「兄」三十二)

この会話もまた、一郎の身体のことを念頭に置きつつ、それをあえて隠したまま行う特殊な趣味の会話に見えてきた。


4、直の嫌味


場面変わって、何度か引用しているが「女景清」の際、人前で一郎が語った男女論にいきなり直がケチをつけている。

「男は情慾を満足させるまでは、女よりも烈しい愛を相手に捧るが、いったん事が成就するとその愛がだんだん下り坂になるに反して、女の方は関係がつくとそれからその男をますます慕うようになる。これが進化論から見ても、世間の事実から見ても、実際じゃなかろうかと思うのです。それでその男もこの原則に支配されて後から女に気がなくなった結果結婚を断ったんじゃないでしょうか」
妙な御話ね。妾女だからそんなむずかしい理窟は知らないけれども、始めて伺ったわ。ずいぶん面白い事があるのね
 嫂がこう云った時、自分は客に見せたくないような厭な表情を兄の顔に見出したので、すぐそれをごまかすため何か云って見ようとした。すると父が自分より早く口を開いた。

(「帰ってから」十九)

この直の台詞はちょっとニュアンスがわからない。決して真正面から一郎の話を否定したものではない。しかし少なくとも、一郎の話に素直な肯定や同意は示していないことは明らかだろう。ましてや直以外には長野父・一郎・二郎・男性の来訪者2人と、その場で唯一の女性が直という状況下でだ。

この直の台詞に関しては、中には「一郎は完全に性的不能で直と関係を持ったことがない」と解釈している人もいた。
その解釈もわかるが私には一郎は女性が大好きで性欲も強いと感じているので、「自分一人ではできるが他人と二人ではできない」状態と思う。

上記「兄・三十一」における直の「近頃は魂の抜殻になっちまったんだから」は、一郎から「お前とするより自分でしたほうが情欲が満足する」旨を言われたのだろうか。

5、小谷野敦氏の考察


ここは完全に他人の考察に乗っかった話をします。
まず、紀州東照宮で一郎が二郎に「メレジス」なる人の話を振る。

「御前メレジスという人を知ってるか」と兄が聞いた。
「名前だけは聞いています」
(略)
「その人の書翰の一つのうちに彼はこんな事を云っている。――自分は女の容貌に満足する人を見ると羨ましい。女の肉に満足する人を見ても羨ましい。自分はどうあっても女の霊というか魂というか、いわゆるスピリットを攫まなければ満足ができない。それだからどうしても自分には恋愛事件が起らない」
「メレジスって男は生涯独身で暮したんですかね」

(「兄」二十)

私はこの二郎の返しが、「そんな小理屈こね回して悲劇ぶるならそもそも結婚しなきゃいいのでは」と見事に一蹴したものと解釈している。

だが、小谷野氏によればそもそも「メレジス」は一郎のようなことなど言っていないそうである。

 ー そして問題の部分では、婉曲な言い回しが取られてはいるが、良く読めば、単に健康状態が思わしくないので、女性の肉体に対する健全な欲求が衰えている(あるいはインポテンツ)と嘆いているにすぎないのである。(略)「肉体だけでは満足できない、だから恋愛事件が起こらない」などということは、まったく言っていない。
 意図的かどうかは知らないが、漱石によるメレディスの誤読は、「西洋的恋愛」は精神的なものだ、という近代日本知識人の典型的な誤解、あるいは単純化を示している。

(小谷野敦「夏目漱石を江戸から読む」161頁・中公新書)

小谷野氏はこの後は違う話に移っており、漱石が意図的か誤読はそれ以上ふれていない。

しかし、どうだろう、これは夏目漱石があえて捻じ曲げ解読を、一郎にさせたのではないか。

漱石は「長野一郎君が魂だスピリットだと凄い大真面目に哲学問題みたく語っていますが、実は全部下半身のお話なんですよ。ちゃんと元のメレジス書簡集をあたってくれた人だけはわかりますよね」と、伝えてくれたのではないだろうか。

なんとなく、夏目漱石ならやりそうだ。たとえそれで100年以上誰にも気づかれなくとも。


(しかし今回の記事書こうとしていろいろな単語を検索してしまった。おすすめ商品とかこわい)


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