夏目漱石「三四郎」⑧ 女に征服された男(2)

1、「女」、「女」、「女」


小説「三四郎」はこう始まる

 うとうととして目が覚めると女は何時の間にか、隣の爺さんと話を始めている。

(「一」)
(※ 著作権切れにより引用自由です。)

これは主人公・三四郎が上京する汽車の中の描写である。
「三四郎」はいきなり、主人公の「女」に対する目線・しかも盗み見のような視線から始まっている。

さらにここで「爺さん」は年齢と性別を含めた名称だが、女のほうは「女」と、完全に性別のみの分類で、三四郎もしくは語り手から呼ばれている。
前に書いたように、三四郎もしくは「三四郎」の語り手は、女を大好きなのである。

さらに三四郎は、その「女」の顔を他の女の顔と比べて勝手に批評を始める。

 唯(ただ)顔立から云うと、この女の方が余程上等である。口に締りがある。眼が判明(はっきり)している。額がお光さんの様にだだっ広くない。何となく好い心持に出来上がっている。それで三四郎は五分に一度位は眼を上げて女の方を見ていた。――
(「一」)

どうだろう。汽車で乗り合わせた「女」に対して、その口・眼・額を観察しては「この女の方が上等」と評しているのである。さらにはその女の顔を5分に一度じろじろ見続けているのである。もし電車内で私が同じことをやったら、すぐに「女」から気持ち悪がられて移動されているだろう。そもそも私にはそんな度胸もないけど。

さらにこの汽車は名古屋までで三四郎らは一旦下りて宿に泊まるのだが、何故か女と二人で同じ宿に入り「梅の四番」の部屋に上がる。しかも三四郎が風呂に入ると「女」が「ちいと流しましょうか」と言って入り、「帯を解き出した」のである。

ちょっとわけがわからないというか、謎な展開である。無論「女」と三四郎は初対面である。普通に考えたら美人局かなにかの詐欺、あるいは三四郎が余程の美男子かというとこだが、結局謎なままである。
(なお、この「不意に女と二人きりの密室状態になる」+「女が帯を解き出す」場面は「行人」のお直と二郎にも出てくる。)

またこの「女」は、汽車内での爺さんとの会話では、広島・呉から途中で京都に一度下りてまた乗った、小供がいる、夫が大連に出稼ぎに行ってたが半年ほど連絡がなくなり親の里に帰る、ということである。


(いまふと思ったのだが、これらはすべて女が爺さんもしくは聞き耳を立てている三四郎に向けて語ったことであり、事実か否かは全く不明だ。あ、もしかして「十二」で急に語られる与次郎の、「君なんぞ曾(かつ)て近寄った事のない種類の女」「僕の関係した女」「その女が林檎を持って停車場まで送りに行くと云い出した」女が、この汽車の「女」かもしれない。特に根拠はないが。)

結局、「女」と三四郎はなにもないまま同室で夜を明かし、翌朝駅で別れる。ここで三四郎は「女」から以下の言動をされる。

―― 女はその顔を凝と眺めていた、が、やがて落付いた調子で、「あなたは余っ程度胸のない方ですね」と云って、にやりと笑った。三四郎はプラット、フォームの上へ弾き出された様な心持がした。車の中へ這入ったら両方の耳が一層熱り出した。――
(「一」)

そして三四郎は動き出した汽車内で一人、煩悶を繰り返す。

―― 二十三年の弱点が一度に露見した様な心持であった。親でもああ旨く言い中(あ)てるものではない・・・・・
(略)
 どうも、ああ狼狽しちゃ駄目だ、学問も大学生もあったものじゃない。甚だ人格に関係してくる。(略)何だか意気地がない。非常に窮屈だ。まるで不具にでも生まれたようなものである。けれども・・・・・・
(「一」)

こうして三四郎は「女」によって、いきなり上京の出鼻をくじかれてしまう。

ここで、この「女」はあくまで「女」として、三四郎もしくは語り手に呼称されている。名前について互いに聞いたり名乗ったりした描写はない。あくまでも、「女」なのである。まさに、「女」なのである。

帝国大学(東大)に合格し、将来に大きな希望を抱いて上京する若者・三四郎は、ただの「女」一人によって、プラットフォームに弾き出され、両耳を熱らされ、人生全ての弱点を露見させられ、人格批判された気にさせられ、不具に生まれた気分にされているのである。

「女」によって。
どこの誰ともわからない、
「女」一人によってである。

ここで女の名前が示されず、また「若い女」とか「美しい女」といった描写でもなく、「女」という性別のみの呼称・ずばり性別の呼称であることに、重いリアリティーを感じる。少なくとも私は。

(これもふと思ったが、「女」は駅で三四郎と別れる際に、「始めて関西線で四日市の方へ行くのだと云う事を三四郎に話した。」とある。しかし名古屋から四日市はさほど離れていない。現在の特急であれば27分で着く。無論当時(明治41年=1908年)の鉄道事情は異なるであろうが、四日市まで名古屋経由で移動する者が、事情もなくわざわざ名古屋で一泊する予定を組むとは思えない。またなんらかの突発的事情で最終の名古屋留まりにしか間に合わなかったのかもしれないが、少なくとも汽車の中で「女」が慌てたり乗り損なったかのような様子は全くない。「四日市」が嘘か、あるいは何らかの書かれていない理由であえて名古屋留まりの汽車に乗った可能性がある。しかしそうだとして理由は、、?)


もう一度、「三四郎」の冒頭を引用する。

うとうととして眼が覚めると女は何時の間にか、隣の爺さんと話を始めている。

そして、「三四郎」の最終十三章、ヒロイン・里見美禰子の肖像画の題名は、

「森の女」

であることが示される。示された以降、画に対する語り手の呼称が、「森の女」にとって代わる。美禰子の画、とは言わない。
そして、「三四郎」において、三四郎がはっきりと口に出した最後の言葉は、これである。

「森の女と云う題が悪い」

「三四郎」は、女に始まり女に終わったのである。



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