夏目漱石「三四郎」⑦ 女に征服された男(1)

1、女はずるい


夏目漱石が「三四郎」の前に書いた「坊っちゃん」には、次の一節がある。

元来女のような性分で、ずるいから、仲がよくなかった。

(「坊っちゃん」・「一」)
(※ 著作権切れにより引用自由です)

これは坊っちゃんが少年時代の回想をしつつ、自身の兄について評した言葉である。
「女のような性分で、ずるい」― 私がこれを書いてる令和6年はおろか、平成時代でも現役の男性作家がこんなフレーズを書いたら袋叩きにされそうである。

しかし、この一節を書いた作者・夏目漱石は、女を好きになって苦しむ男達の物語を多数書いたのである。時にはそのために自ら命を断ってしまう男もいた。

ちなみに「女の性分」は「ずるい」と評した坊っちゃん自身は、「マドンナ」を遠くから見掛けただけで

全く美人に相違ない。何だか水晶の玉を香水で暖(あっ)ためて、掌(てのひら)で握ってみたような心持ちがした。
(「坊っちゃん」・「七」)

などとポエムをひとりごっている。
女の性分をずるいと言いながら、美人は大好きなのである。そもそも美人・女性を大好きでなければ、「ずるい」との感想は出てこない。


2、とんでもない女好き


そして「三四郎」には次の一節が出てくる

―― 悉く着飾っている。その上遠距離だから顔がみんな美しい。その代り誰が目立って美しいという事もない。只総体が総体として美しい。女が男を征服する色である。――
(「六」)

これは大学(帝国大学)の運動会に、美禰子も見物に来るだろうから、「今日はとか何とか挨拶をしてみたい。」と三四郎が狙って出向き、婦人席を眺めた際の感想である。
遠くから女を眺めては、勝手にあれこれとポエムを語りだしてる点で、先の坊っちゃんの「水晶の玉を香水で~」と共通する。

「遠距離だから顔がみんな美しい。」これは皮肉の意味もあるだろうが、勝手に「美しい」と感じているのは三四郎もしくは語り手である。
相手は単に見物の女性客であり、芸能人やモデルではない(「三四郎」執筆の明治41年(1908年)当時なら、人気芸者や高級娼婦ではない、というべきか)。
なのでその女性集団に自分が特に・あるいは異常に魅力を感じていなければ、服を着飾っていたところで顔は顔であるし、「顔」が「みな美しい」との感想にはならないだろう。
男が年を取ると、自分と仲良くしてくれる若い女性が客観的な容姿がどうであれ可愛く見えてしまう現象が一般に(?)あると思うが、この場面はなんの接触もない見物客を眺めただけである(先の感想の後に、三四郎は美禰子とよし子を発見する)。

三四郎もしくは語り手は、とんだ女好き・私から見ても異常なほどの女好きなのである。

3、女に征服された男

同じ個所からもう一度引用する

女が男を征服する色である。

繰り返すが、女たちは運動会を見学しているだけである。
さらに表現は、「征服する」である。
通常の描写であれば、仮に語り手や主人公がそこに惹かれていても「男を魅了する色」とか「男を引き寄せる色」でいいような気がする。

しかし漱石は「征服」と書いたのである。

しかも「征服」されたのは、いまいちモテない主人公・三四郎だけではない。「男を征服する」と、世の男性一般が征服されているのである、単なる一般の見物客女性達に。

ここで、「坊っちゃん」の一節も再度引用する。

女のような性分で、ずるい

だが「坊っちゃん」の中に、兄が特にずるいと思えるような話は出てこない。将棋で「卑怯な待駒」をしたとされているが、それが本当にずるいことなのか不明である。同様に「女はずるい」と示す描写も「坊っちゃん」に特に出てこない。マドンナに限っていえば婚約者(うらなり)が金に困ると見捨てて金のありそうな赤シャツになびいてるから誉められはしないだろうが、「ずるい」とは次元が異なる。またマドンナは坊っちゃんの下宿のお婆さんや女性を含めてであろう周囲からも批判されているので、仮に「マドンナはずるい」とは言えても「女はずるい」と言える根拠は見受けられない。

しかし、かの文豪・夏目漱石は書いているのだ
女はずるい
女が男を征服する
と。

夏目漱石の描いた物語とは、

・女に征服されてしまった男達

の物語である。

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