夏目漱石「行人」考察(16) 一郎は何故ずれた問い掛けを繰り返すのか?

1、明らかに間違った認識を振りかざす一郎


夏目漱石「行人」に描写された一郎の苦悩が、妙に大袈裟であり、この苦悩は一言でいえば
「(直やお貞に)モテないよ」
であると私は解釈している。


上記の記事ではふれなかったが、「パオロとフランチェスカと三勝半七」の話も、やはり不自然に大袈裟である。

「二郎、何故肝心な夫の名を世間が忘れてパオロとフランチェスカだけ覚えているのか。その訳を知ってるか。」
 自分は仕方がないから「矢っ張り三勝半七みたようなものでしょう」と答えた。兄は意外な返事に一寸驚いたようであったが、「己はこう解釈する」と仕舞に云い出した。
「己はこう解釈する。人間の作った夫婦という関係よりも、自然が醸した恋愛の方が、実際神聖だから、それで時を経るに従がって、狭い社会の作った窮屈な道徳を脱ぎ棄てて、大きな自然の法則を嘆美する声だけが、我々の耳を刺激するように残るのではなかろうか。
(略)

(「帰ってから」二十七)
(※ 著作権切れにより引用自由です。)

「~残るのではなかろうか」いや違う。

(1)違う理由1・物語の主役だから


Q・何故夫の名を忘れてパオロとフランチェスカだけ覚えているのか

A・それがパオロとフランチェスカを主要人物として取り上げたお話だから。
もし浮気された夫を主人公や主要登場人物とする話なら、当然読者は夫を覚えている

これで終わりである。
単にお話の中で主役となっている人物が覚えられている。ただそれだけである。

例えば、ドストエフスキーの「永遠の夫」なら、タイトルがずばり不倫された夫・そして多分これからも妻に不倫されるであろう夫である。
また「源氏物語」で、女三の宮と柏木だけ記憶しているが光源氏は忘れた、なんて人はいないだろう。
現実の芸能人でいえば、渡辺謙の娘とその元夫については現在でもメディアにたまにふれられているが、「唐田えりか」と聞いてわかる人がどれだけいるだろうか。
二郎の「三勝半七みたようなもの」も、「そりゃ古今東西のあらゆるお話で、ある二人にスポットあてたものはみんなその二人を記憶するでしょ」と示したものと思う。女郎との心中ものであれば「心中天の網島」なら遊女小春や紙屋の夫よりも、不倫された妻・おさんにこそスポットを当てた物語だ。

なによりこの、「行人」を読んだ人で(不倫があったかはともかく)二郎と直だけ覚えているが長野一郎は記憶に残ってないです、なんて人もいないだろう。無論一番スリリングなのは直と二郎が泊まる和歌山の夜だが。

この点で、一郎の「解釈」は間違いだ。

(2)違う理由2・結婚と恋愛はそこまで違わない


さらに、一郎のいう「人間の作った夫婦という関係よりも、自然が醸した恋愛の方が、実際神聖だから~」も、同様に明らかに間違いとわかる主張である。
普通に恋愛結婚してる人は明治でも大正時代でもいたし、完全に「結婚するもしないも自由」となった平成・令和においても、自分たちの意志で恋愛結婚してる人たちは私含め大勢いる。「夫婦」と「恋愛」に対立や併存不可な関係性はない。
また、「恋愛」を仮に「自然の醸したもの」とするのであれば、「結婚」という関係を作ろうとしたのも、また結婚をしよう・したいと思うのも自然であろう。逆に仮に結婚を「人間の作った関係」と呼ぶのであれば恋愛もまた人間が作ったものだ。

仮に結婚を「狭い社会の作った窮屈な道徳」と思うのであれば、わざわざそれを「脱ぎ棄て」るまでもなく、最初から結婚しなければいい・とっとと離婚すればいいだけの話である。

実際、「パオロとフランチェスカ」の話が出るよりもはるかに前の段階で、一郎と二郎は同様に西洋人の名前を出してこんなやり取りをしている。

「御前メレジスという人は知ってるか」
「名前だけは聞いています」

(略)
「その人の書翰の一つのうちに彼はこんな事を云っている。――自分は女の容貌に満足する人を見ると羨ましい。女の肉に満足する人を見ても羨ましい。自分はどうあっても女の霊というか魂というか、所謂スピリットを攫まなければ満足が出来ない。それだからどうしても自分には恋愛事件が起らない」
「メレジスって男は生涯独身で暮したんですかね」
(「兄」二十)

手持ちの文庫本でこのメレジスの話が146頁、パオロとフランチェスカが290頁に出て来る。
メレジスでの二郎の返しは、そのままパオロとフランチェスカの話に対しても利用可能だ。
結婚を「狭い社会の作った窮屈な道徳」と思うのであれば、独身でいりゃいいだけでしょ、と。
漱石の他作品でも「三四郎」で画家の原口が「広田先生を見給へ、野々宮さんを見給へ、里見恭助君を見給へ、序に僕を見給へ。みんな結婚をしていない。」(「三四郎」十)」とあるように独身者が多数いる。


(3)結婚しているからこそ「脱ぎ棄てる」ことが可能

そして、むしろパオロとフランチェスカで出て来る一郎の発言はその表面上の話とは逆に、「「不倫」という恋愛は、「結婚」という制度が存在してくれるおかでげでタブー破りで盛り上がってる」と示したものと思う。

それがわかるのが、「狭い社会の作った窮屈な道徳を脱ぎ棄てて」との語り、より細かくいえば「脱ぎ棄てて」との言葉だ。

最初から結婚していない者同士や、あるいはとっくに離婚して独身の者同士では、「脱ぎ棄て」ることができない。そもそも着ていないから。

狭い社会の作った窮屈な道徳」を、しっかり着込んでいる者限定で、それを「脱ぎ棄て」るという快楽が得られるのだ。

漱石の他作品でいえば、「それから」で人妻・三千代からの猛烈なアプローチを嫌ではないが対応に戸惑う主人公:長井代助の話は、三千代が人妻でなければ面白味は半減するだろう(むろん「それから」は単に不倫をテーマした話ではないが)。

つまり、一郎の度々の問いかけは、
「間違った認識を必死に言い張ろうとする男」として描かれているのだ。

では、一郎は何故、間違ってるとわかる問いかけを何度も繰り返しているのか?
一つの答えとして、「本当の苦悩は「モテない」。しかしそれを成人男性は口に出来ない」ことは書いた。
もう一つの答えを、探っていきたいと思う。

(続きます)

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