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夏目漱石「行人」考察(10) 一郎の苦悩は「モテたいよ」

1、一郎の苦悩に即座につっこむ二郎


「御前メレジスという人は知ってるか」
「名前だけは聞いています」

(略)
「その人の書翰の一つのうちに彼はこんな事を云っている。――自分は女の容貌に満足する人を見ると羨ましい。女の肉に満足する人を見ても羨ましい。自分はどうあっても女の霊というか魂というか、所謂スピリットを攫まなければ満足が出来ない。それだからどうしても自分には恋愛事件が起らない」
「メレジスって男は生涯独身で暮したんですかね」

(「兄」二十)
(※ 著作権切れにより引用自由です。)

これ、二郎が一郎及びメレジスの苦悩を一蹴したと読めないだろうか。
「よくわからんけど、そんな霊だ魂だスピリットだとあれこれ悩むぐらいだったら、そもそも女と結婚したり女と関わろうとしなきゃいいだけじゃん」と。

二郎の即座の突っ込みを受けて一郎は怒る。

「そんな事は知らない。又そんな事はどうでも構わないじゃないか。然し二郎、おれが霊も魂も所謂スピリットも攫まない女と結婚している事だけは慥だ」


「なら離婚したらいいのでは」とはさすがに二郎はつっこまなかった。

しかし、この一郎の苦悩は一言にすれば、
「直に愛されてないよ」
では。

そして作者・夏目漱石は、「この苦悩めいた話は、要は女にモテてないよという話なのですよ」と指摘しているように読める。

現に、一郎の苦悩は直がその気になればあっさりなだめられている。

 自分は兄夫婦の仲がどうなる事かと思って和歌山から帰って来た。自分の予想は果たして外れなかった。自分は自然の暴風雨に次で、兄の頭に一種の旋風が起る徴候を十分認めて彼の前を引き下った。けれどもその兆候は嫂が行って十分か十五分話しているうちに、殆ど警戒を要しない程穏かになった。
 自分は心のうちでこの変化に驚いた。針鼠のように尖ってるあの兄を、僅かの間に丸め込んだ嫂の手腕には猶更敬服した。

(「帰ってから」一)

このように、直が「十分か十五分話して」あげれば、一郎は落ち着くのである。
霊だ魂だスピリットだ、とあえて大業かのように表現しておきながら、二郎の突っ込みや直の手管でおとしているのである。

同様の場面は後半にもある。

「二郎、お前は現在も未来も永久に、勝利者として存在しようとする積だろう」と彼は最後に云った。
(略)
 ところへのその嫂が兄の平生着を持って、芳江の手を引いて、例の如く階段を上ってきた。
(略)
 彼女は自分の顔を見た。けれども一言も自分には云わなかった。
「大変遅くなりました。さぞ御窮屈でしたろう。生憎御湯へ這入っていたものだから、すぐ御召を持って来る事が出来なくって」
 嫂はこう云いながら兄に挨拶した。そうして傍に立っていた芳江に、「さあお父さんに御帰り遊ばせと仰ゃい」と注意した。芳江は母の命令通り「御帰り」と頭を下げた。
 自分は永らくの間、嫂が兄に対してこれ程家庭の婦人らしい愛嬌を見せた例を知らなかった。自分は又この愛嬌に対して柔げられた兄の気分が、彼の眼に強く集まった例も知らなかった。

(「帰ってから」二十八)

一郎の苦悩は、直のほんの一言や態度であっさり和らぐことが、二度に渡り明記されている。
やはり一郎の苦悩は「モテないよ」なのである。

無論だからといって
「愛されてないよ」との苦悩
「モテないよ」との苦悩
これらが軽いわけではない。むしろ逆だ。そうじゃなきゃ「こころ」のKは小さなナイフで頸動脈を切るなどしない。
むしろ「モテなくて苦しい」と大人の男が口にしようものなら、今でいうセカンドレイプに遭わされて余計に状況は悪化する。
だから、ごまかさざるを得なくなるのだ。霊だ魂だスピリットだ、と。

だからこそ、より苦しいのだ。

また一郎の場合は、相手が妻でありかつ直に完全に嫌われてるわけでもなさそうなので、
「お前がその気になればすぐに俺の苦痛なんて和らぐのに、たまに気まぐれでしかやらないのはどういう了見なんだ。そんな手間暇かかるものでも減るものでもないだろうに」
との感情もあるだろう。


2、「山」のほうが逃げる可能性は?


 -- モハメッドは向うに見える大きな山を、自分の足元へ呼び寄せて見せるというのだそうです。それを見たいものは何月何日を期して何処へ集まれというのだそうです。
(略)
 -- モハメッドはとうとう三度号令を繰返さなければならなくなりました。然し三度云っても、動く気色のない山を眺めた時、彼は群衆に向って云いました。――「約束通り自分は山を呼び寄せた。然し山の方では来たくないようである。山が来て呉れない以上は、自分が行くより外に仕方があるまい」彼はそう云って、すたすた山の方へ歩いて行ったそうです。
(略)
「何故山の方へ歩いて行かない」
 私が兄さんにこう云っても、兄さんは黙っています。

(略)
「もし向うが此方へ来るべき義務があったらどうだ」と兄さんが云います。
「向うに義務があろうとあるまいと、此方に必要があれば此方で行くだけの事だ」と私が答えます。
「義務のない所に必要のある筈がない」と兄さんが主張します。
「じゃ幸福の為に行くさ。必要のために行きたくないなら」と私が又答えます。
 兄さんはこれで又黙りました。

(「塵労」三十九・四十)

ここでも私は一郎の、「義務・必要」との話にごまかし・ごまかさざるを得ないなにかを感じた。
一郎がHに聞き返すべきだったのは、義務だの必要だのではない。

「此方から近寄ったら、山のほうが逃げていったり気色悪がられたらどうするんだ」

これではなかったろうか。
あるいは、
「此方から歩いて行っても、山から無視されて、もう一度歩いて行ったら今度は山から溜息つかれたらどうするんだ。小川三四郎の告白に対する里見美禰子のように」
これではなかったろうか。
しかしこんな反問をすることは、大人の男には許されていない。「行人」が書かれた大正元年もいまの令和六年も。

それに仮に上記の反問をされてしまったら、Hも夏目漱石も、回答はできないだろうけど。

3、お貞にもモテていない一郎


さきほどの「山」云々の少し後に、鎌倉の紅が谷でお貞の話が出る。

 ―― 避暑地だけあって人に会います。そうして会う人も会う人も、必ず男女二人連に限られていました。(略)どれもこれも若い男と若い女ばかりです。私はこういう一対に何度か出合いました。
 私が兄さんからお貞さんという人の話を聞いたのはその時の事でした。

(略)
「君はそのお貞さんとかいう人と、こうして一所に住んでいたら幸福になれると思うのか」
(略)
「僕はお貞さんが幸福に生れた人だと云った。けれども僕がお貞さんのために幸福になれるとは云やしない」
(略)
「どんな人の所へ行こうと、嫁に行けば、女は夫のために邪になるのだ。そういう僕が既に僕の妻をどの位悪くしたか分からない。自分が悪くした妻から、幸福を求めるのは押が強過ぎるじゃないか。幸福は嫁に行って天真を損われた女からは要求出来るものじゃないよ」

(「塵労」四十九・五十一)

「行人」序盤の岡田とお兼の夫婦関係はなんとなく微妙ではあるが、現実社会をみれば結婚して妻から幸福にしてもらってる夫婦などいくらでもいるだろう。例えばうちとか。
だからこの一郎の言葉も、やはりごまかし・ごまかさざるを得ないなにかがあったと感じる。

一郎がHに云うべきは、こうではないか。

「僕はお貞さんのことがまあまあ好きだが、向こうはどうもそうではない。それを無理に結婚したところで、『気の弱い直』になって今の結婚生活と同じことだろう」
と。
この意味であれば、「幸福は妻に要求できない」の意味はわかる。霊も魂もスピリットもつかませない = 自分をあまり愛していない女と結婚してもそりゃ幸福にしてくれと要求はできないことは、直だろがお貞だろうが変わらないだろう。

お貞の話が出るよりも前の段階で、一郎が直にDVをした話が出て来る。

「一度打っても落付いている。二度打っても落付いている。三度目には抵抗するだろうと思ったが、矢っ張り逆らわない。(略)僕は何故女が僕に打たれた時、起って抵抗して呉れなかったと思う。抵抗しないでも好いから、何故一言でも云い争って呉れなかったと思う」

(「塵労」三十七)

このくだりを見て、「気になっている子にわざと意地悪する小学生」を想起しなかっただろうか。いや私は今でもそのレベルだが。

一郎は、直に反応してもらいたかったのである。
しかし直は、おそらくはその一郎の心情を完全に見切った上で、あえてなにも反応しないという、最大の反撃をしたのである。

一郎は、直にモテなかった。

ここで直が怒って反応してくれたら、一郎はHと旅行に出かける必要も、Hから二郎にこう伝えられる必要もなかったであろう。
「―― 兄さんがこの眠から永久目覚めなかったらさぞ幸福だろうという気が何処かでします。同時にもしこの眠から永久目覚めなかったらさぞ悲しいだろうという気も何処かでします」

(「塵労」五十二)

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